戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年06月08日

五十年前、私は一度死んでいた



吉田照雄

8f8ad18623cf19f954e497343856099a_s「おーい、おーい」遠くで誰かが呼んでいる。

「起きろ、吉田起きろ。吉田」

だんだん声が大きくなり近くなる。誰かが俺を呼んでいるようだ。眠い目を開けると、隣に寝ていた筈の青柳が起きてしきりに私の身体をゆさぶって叫んでいる。

「吉田、吉田起きろ、起きろ」益々声が大きくなる。

「青柳どうしたんだ、何かおきたんか」と私が聞くと、

「オーオー気がついたか、良かった、助かった」と、又叫ぶ。

「どうしたんだ」と聞くと、

「どうもこうもない。お前は今心臓が止まっていたんだぞ、死んでいたんだぞ」

又叫ぶ。「そんな馬鹿な」

今年も盆がやってくる、終戦記念日の八月十五日がやってくる。五十年前の出来事を私は死ぬ迄忘れられないだろう。

 

 満州そしてニューギニヤへ

昭和十七年一月、私は関東軍独立自動車隊「五二七」部隊へ現役兵として入隊を命じられ、一月十日久留米第五四部隊に預けられ、ここで一期の検閲を受け、門司港から大連、更に北上し黒河省の孫呉に四月入隊した。昭和十八年、初年兵の教育掛の時、上官「伍長」と衝突し、南方派遣軍に転属を命じられ、三月新京で部隊編成、朝鮮半島を経て釜山、門司港、佐伯港で船団を組み、四月にパラオに上陸、ここで三ヶ月待機し、七月にニューギニヤのハンサという所に上陸する。

私たちの部隊の任務は被服移動修理班といって、野戦貨物省に所属し、車で移動しながら軍服などを修理する部隊で、自動車隊から派遣された私達八人はその車の運転手であった。しかし現地では前線「マダン」などで激戦中で、とても被服の修理どころでなく、仕事のない私達は、もっぱら野戦貨物省の使役「主として海上からの荷上げ」であり、私は高砂族や捕虜「主としてインド人」の指導に当たった。

ニューギニヤのハンサに上陸する迄にも色々の出来事があった。初年兵の昭和十七年十一月に母が亡くなった。又パラオでは、新京の部隊編成で私と同じ班となり、最後迄私と行動を共にした山梨県出身の青柳が、海に貝を取りに行った時、テント建設用のハンマーを無くして責任問題になった時、大きな波が来たので紛失は不可抗力であったとの私の弁護を契機に二人は固く結ばれ、後で私が彼に助けられるのである。

 

 昭和二十年七月三十日玉砕命令出る

昭和二十年七月三十日の夜、私がお世話になっていた山路少尉が会議から帰って来て、「ちょっと来てくれ」というので少尉の宿舎に行くと、

「大変なことになった、今日の会議で玉砕命令が出た。特にお前の所の隊長が、お前ら三人は逃亡兵で行く先知れずと云っていたぞ、俺は事情を知っているから何も云わなかったが、これからどうするんだ」という話であった。我々三人は直ちに話し合った。逃亡兵などとんでもない、食糧を確保出来たし、明日早く立って部隊と合流しようということになった。

 

 軍隊とはこんなもの

我々三人「吉田、三宅、高橋」がなぜ山路少尉の所にいて、自分の所の隊長が我々の行方をなぜ知らないのか、それには次のような事情があった。情勢が悪くなると、我が部隊も御他聞にもれず敵の攻撃を逃れて、海岸から山へ、更に山奥へと入った。「軍隊ではこれを転進と云う」

 

 原住民「カナカ族」の養子となる

大分減ったとは云え七十人近い大部隊である。一箇所に終結することは出来ない。その最大の理由は食糧がない。山に入る時持ってきた食糧などすぐに無くなってしまい、現地で調達するしかない。原住民の食糧は、山岳地帯ではイモを作って生活している。それも自分たち家族の食べる分だけしか作らない。当然日本兵の分などある筈がない。又湿地帯の原住民は「サクサク」と云って「サゴヤシ」と云うヤシの木の中の澱粉を食糧としている。ここでも勿論自分達が食べる物以上の物は作らない。そこで兵隊は自給自足と云うことになる。サゴヤシの方は湿地帯に多くあり、現地人の食糧以上にあるので、自分達でサクサクを作ることは出来るが、山岳地帯はそうはいかない。なんぼ南方とは云え、イモを作るには時間がかかり、その上土地も必要である。少ない食糧しかない地域へ何万と云う兵隊が入って来るので、原住民はたまらない。そこで云うことを聞かない原住民は追っぱらい食糧を奪う。協力する原住民に対しては色々な手を使って食糧を取り上げる。部落の食糧には限りがあるので、兵隊の方も分散して少人数で部落にはいることになる。私が最初に入ったのは「ムイ」と云う部落であった。この部落は割と大きい部落で、前から居た兵が十名、それに私達十名が加わり二十名の居候となった。先任者のやり方は非常に巧妙で、私達もそれに習った。その方法は、新しく入った兵隊は原住民の息子と兄弟となる。兄弟になる証として何か品物を一品渡すのである。一番彼らが欲しがったのは、レザー「かみそりの刃」やマッチであった。そこで兄弟となりその家族の一員となるので、当然食べ物はその家で面倒を見ると云うことになるのである。夕方になるとその家から迎えが来て、その家で共に夕食を取り、帰る時に明日の分を兄弟が運んでくれるのである。それもなるべく沢山持って近所の人々に、俺達はこれだけサービスしているんだとの、原住民の虚栄心を巧みに利用したやり方であり、しかも原住民は二食なのに自分達は三食、腹一杯食べるのである。しかし、どこでもこんなにうまく行く所ばかりではない。

 

 原住民の襲撃を受ける

次に私達が七人で入った部落は、名前は忘れたがワングットと云う酋長がいる小さな部落であった。当時の情勢の中で、原住民はアメリカ側に付くか日本側に付くしかない。中立という立場はなかったのである。この部落は食べ物を要求する日本兵に対し、反抗して四人の日本兵を殺し、銃などを奪ったのである。怒った部隊は兵を増強し、ヤシの木を切り倒し食糧にし始めたのである。驚いた原住民は日本兵に詫びを入れ、食べ物を提供することになり、我々がその後に入ったのである。何故原住民が降伏したかというと、特に山岳地でヤシの木は彼等の宝物なのである。それはヤシの実の油が彼等の調味料であり、栄養源でもある。立派な実がなるまでには、二十年位かかると言われている。降伏したとはいえ、部落に入った我々も本当は心細かった。何といっても七人の兵隊で、小銃三丁と拳銃一丁であり、弾薬も殆どないのである。原住民の方も同じ思いの様で、部落の中には一人もおらず、ジャングルの中で生活しているのである。我々は食料が無くなると、連絡用のガラムタ(木をくりぬいて、叩けば音の出る太鼓のようなもの)をどんどん叩くと、酋長が二、三人の部下を連れて現れ、イモなどをよこすのである。三日に一回くらいである。

二十年一月一日、敵側からの指示であったと思うが、日本の正月だから油断していると思ったのであろう、我々の宿舎の裏表から手留弾を三発投げ込んできた。幸い、酋長などの挙動がどうもおかしいと警戒していた我々は、素早く宿舎の外に飛び出し、片岡という兵士一人だけの負傷で他は助かったのである。

 

 再び部隊は一ケ所に集まる

昭和二十年五月、いよいよ戦局はきびしくなり、我々は更に山の奥深く入り、前線に送る食料を作ることになった。澱粉「サクサク」作りである。兵隊もあちこちで戦死し、五十人ぐらいになっていたと思う。サクサク取りを始めたが、体が弱り作業ができない兵隊が約十五人いた。部隊にいても役にたたないので「おまえ達は自分で自活せよ」と、三日分の食料を与えられ、部隊を追い出されたのである。

 

 勝手に死ぬとジャングルへ

仕方なく我々十五人は部隊を出て、サゴヤシの木を求めジャングルに入り、第一日目はまず寝る場所を造った。木の枝に個人用の小さなシートをかけ、下に毛布を一枚敷くだけである。さらに二日目もジャングルに入り作業にかかるが、なにせ病人ばかりで、仕事にならず引き上げる。

 

 十五人の強盗集団

私達十五人は食料を自分達で作ることができない。生きる為にやむなく、手っ取り早く現地人が作っているイモを略奪する事になる。現地のイモは「タロー」という呼び名の日本のサトイモの親分のようなイモと、「ヤム」という呼び名の山イモとサツマイモの合いの子の様な大きなイモ。原住民は全裸で、夜間は行動しないので、夜寝ているスキに畑から盗むのであった。一夜で半月分くらい盗ってくるのである。当然明くる日、原住民達がやってくる。ウサン臭そうに見て廻るが、当然我々も見つかる様なヘマはしない。見つかれば当然、命も危ない。

そうこうしているうちに、部隊から連絡があり、部隊は移動することになったので帰ってこないかとの事であった。

 

 十五人で大論争

さてどうするかという事になった。「あんな薄情な隊長の所には絶対帰りたくない」という兵隊、「しかし食料もないので帰った方が良い」という兵隊、九人と六人に分かれ、九人が隊に帰り、残った六人で相変わらずの食料強盗を続ける。

しかし、半月もたたないうちに移動した我が隊の後に来た兵隊が、私達の所に抗議に来た。「現地の住民から、どうもおまえ達が食料強盗の犯人らしいと言って来た。俺達の立場もあり、直ちにここを出て欲しい」との抗議である。

やむなく我々六人は昔サクサクを取っていた別のジャングルに移動し、作業にかかるが、ここでもやはり体力の限界があり、行き詰まる。そこで残った六人のうち、三人が「元の隊長の部隊に帰る」と言い出し、我々三人は、「昔私達が面倒を見ていた山路少尉の部隊が、わりと近くにあり、高砂族などを使って前線に送るサクサクを取っている所に行こう」ということになり、山路少尉に訳を話し、我々にもサクサクが取りやすい良い場所をもらい、三人で自活しながら、いざという時の食料を貯めていたのである。そこへ七月三十日の玉砕命令が出たのである。

 

 本隊を追って前線へ

七月三十一日我々三名は元本隊が居たA地区へ向かって出発した。道中が長いので途中で夜営することになった。ここでまた、三名の意見が別れたのである。私と三宅は「あくまで本隊を追うべきだ」との意見であった。その理由は、勿論「血も涙もない部下を見殺しにするような隊長の所など行きたくないが、戦後、また、今でも我々が逃亡兵と言うことになると内地の肉親の立場はどうなる、非国民、国賊の家族と言われることになるではないか、死んでも死に切れないではないか。たとえ殺されても本隊に合流すべきである。」今一名の高橋の意見は「どうせ死ぬんだ。また、家族だって日本だってどうなるか、なっているかわからない。どうせ死ぬんなら昔の友人「原住民」の居る川のある部落に行き魚を腹一杯喰べて死にたい」と。ゆずらず遂に別行動をとる事になった。八月一日我々二名は本隊を追って出発する。「その後高橋の生死わからず」。八月一日夜、元本隊の居たA地区に着いた。兵舎には六名の病人が残っていた。そして我々に「病人は此処に残ることになった。お前達もここに残ってはどうか」と勧めてくれたが「駄目だ。たとえ病人でも俺達はこのままでは逃亡兵にされる。あくまで隊長の所へ行く」と部隊の後を追う。

八月二日からの前線に向かう中で一人、二人と落伍した兵に会う。中には知らない他の部隊の兵とも会う、その内に私たちは八名の集団になっていた。勿論落伍者の中には、どうせ負ける戦争、玉砕命令も出たし、どうせ死ななくてはならぬ前線、そう死に急ぐこともあるまい、と言う気持ちも当然あったと思う。しかし、俺達二名はこの人達と事情が違うんだと、必死に本隊を求めて前進するが、戦線は混乱し、昨日通れた道も今日は敵が居て通れない所、また、どこの部落でも兵隊は十人、二十人位しか居ないから八名の応援は心強いのだろう。行く先々の隊長がもっと内の部隊に居てくれ、などの要請が相次ぎ、運命の日八月十五日B部落に着いた時はやはり私と三宅の二名だけになっていた。八月十五日の夕方、私たちはB部隊の隊長の所へ今日泊めてほしいと挨拶に行くと、「そうか良く分かった。おまえらの部隊は、この二つ先の部落にいるが、戦争は本日終わったのでここにいてはどうか。おまえらの部隊は明後日この部落を通る事になっている。」という。私たちはB隊長には感謝しながらも、どうしても前線の部隊の所へ一刻でも早く行きたいと出発し、十六日正午頃、やっと本隊にたどり着く。

 

 やっぱり隊長は冷たかった

直ちに三宅と二人で隊長に報告に行くと、「おまえらは今まで何をしとった。逃亡兵は銃殺だぞ、当然、おまえらは、銃殺にすべきだが、終戦の天皇のお言葉もあるので、銃殺は許してやる。その変わり吉田おまえは俺の荷物を持て。」さあこれからが大変であった。病人の私らは、元気な隊長の私物(隊長の個人的な持ち物)を必死でかついでの行進が始まる。元の基地にたどり着くまで約一週間かかった。その間大きな荷物を持たされ、よろよろとよろめきながら、くやしい苦しい行進が続いた。

 

 戦争は終わった日本に帰れるぞ

海岸への行進が続く基地を出発する時は、病人の私は、部隊の行進にはついていけないので、さすがの隊長も別の元気な兵隊に荷物を持たせる。私の荷物は何も無い。銃剣一本と飯盒、それと少しばかりのサクサクである。部隊はどんどん海岸へ向かって進むが、私たち病人はバラバラ、ひどい時は一日三百メートルも進めなかった。やっと私が海岸にたどり着いた時は、十月一日であった。よくも歩いたものだ。一カ月以上かかって食うものも食わず、たどり着いたのであった。まさに日本に帰りたい、死にたくない、その一念であった。

 

 くやしかったであろう鈴木軍曹の自決

ニューギニアの兵力は二十万と聞いていた。その中には台湾から動員されていた多くの高砂族なども含まれている。私達が降伏しムシという所に集められた時は、九千四百人しかいなかった。十九万以上の人達が死んだのである。しかもその殆どが餓死であった。後方部隊である私達の隊でも戦友が沢山死んでいるが、その中でも鈴木軍曹の死はあわれであった。確か大阪の出身で新京での部隊編成の時は、私と同じ上等兵であったが、招集兵であり、相当年輩の人であった。終戦となり最後の行進である海岸への行進の中で、自決したのである。「いや、させられたのである」私が直接立ち会ったのではないが、私がやっとムシ島にたどり着いて聞いた話である。体を悪くした鈴木軍曹も必死で海岸に向かっていたが、途中自分の力だけでは歩けなくなってしまった。海岸へ出る途中、検問所の様な所があり、そこで軍医が病人の診断をするのである。

軍医の診断で自力で海岸へ出る事はできない、この場所で自決せよと迫られたのである。兵は誰も助けてはくれない。もちろん敗戦した日本兵の援助など、どの現地人もやってくれない。相当数の兵が、この検問所で自決させられた様である。ニューギニアでは、戦争中負傷すれば生きていけないので殆どが自決するという事になる。「第一に食べ物を自分で求めなければならない」交戦中ならあきらめもつこうが、終戦になり、日本に帰れる事が分かってからの自決である。そのくやしさは、いかばかりであったろうか。本当にあわれな自決であった。自決は本人が銃口を口にくわえ、横で戦友が号令をかけて足で引き金をひくというやり方であったそうだ。壮絶な、そして悲しい自決であった。

 

 栄養失調

島に送られ天露をしのぐだけの掘立小屋に約三十人位収容されていた。収容と言っても捕虜である日本人だけの生活である。何時日本から迎えが来るか分からない。更に食糧は一日で一食分位の乾パンの支給だけであり後は草や木の実など口に入る物は何でも喰べる生活である。一食三枚の乾パンを早くから水に漬けふやけさせ大きく見える様にして喰べるのである。私の病気「栄養失調」は益々ひどくなるばかりである。栄養失調がひどくなると身体が浮腫、小便が出なくなる。まぶたが浮腫で見えにくい位となる。更に頭を親指で強く押すと、指がスッポリ入ってしまう様になる。また、金玉にも水が溜まり牛の金玉位大きくなり歩行も困難となる。それ位身体全体に水が溜まり動くのがおっくうになり死んで行く者が多かった。さて島にも軍医が居て特にひどい患者だけを治療することがある。或る日、治療に行くと軍医がヤシの実の汁を私の静脈に打った。三十分間位大変なふるえが私を襲う、軍医に大丈夫ですかと聞くと、「何もせんよりましだろう、少しは栄養になると思う」との答えがかえって来た。いくら戦地とはいえ今思っても、まったく無茶な治療であった。

 

 奇跡が起こる

十一月の始め頃だったと思う。私は海岸で小さな「ビナ」の様な貝二つを見つけ、汁に入れて喰べた所、夜中から猛烈な下痢が襲った。そして夜明け迄に十七回も便所に通った。後の方は歩くことも出来ず這って行く有様であった。しかも米のとぎ汁のような真白い汚物がほとばしるような勢いで出るのである。そして明け方眠ったのか意識不明になっていたのか、その時青柳の大きな叫びを聞いたのである。

 

命助かる

青柳の叫びで息を吹きかえした私は青柳に助け起こされ座って見てあっと驚いた。私の身体が別人の様になっているのである。顔は勿論、足の膝の上まで腫れが引き、上半身はまさに骸骨である。そして脈拍は弱くなり体温も下がって居たのである。これは危ないと言うことで青柳が私を背負い病院に担ぎ込んだのである。

 

 情けは人の為ならず、またもや助けの神に合う

私が担ぎ込まれたのは、新しく海辺に出来た野戦病院であった。勿論病人が多いので他にも海岸には沢山病院はあった。病院と言っても薬などほとんど無く、テント張りで雨露を凌ぐだけ、土の上に自分の毛布を敷いて寝るだけの入院である。只良かったのは入院患者には飯盒の中ブタ一杯のオートミルなどが三食出たのである。

私が驚いたのは、なんとこの病院の軍医や衛生兵が私の知った人達であった。私がウエワークの野戦貨物省に居た時、近くに薬など無い為、病院を開くことも出来ず毎日喰物を求めて苦しんでいた人達であった。幸い私達の部隊には米など豊富であったので食糧を援助し最後に私達が山に入る時、出来るだけの食糧を分け与えて来た部隊の人達だったのだ。

私が担ぎ込まれた時、私の変わり果てた姿を見て、高田軍医は「オー吉田伍長じゃないか、なんと哀れな姿になったな―良し、もう大丈夫だ。お前に俺達は助けられた、今度は俺達がお前を助ける番だ安心しろ」と言われ、嬉し涙が止まらなかった。他の患者には悪かったが、私だけが特別待遇で喰べ物や、なけなしの薬もコッソリ貰ったのである。そして高田軍医の言葉通り昭和二十一年一月帰国船で、一番早く来た永川丸に乗船し無事日本の土を踏んだのである。

 

 あとがき

私は永川丸で一月末浦賀の海軍病院から豊橋の陸軍病院そして小倉の陸軍病院に移り、昭和二十一年七月末に退院する。また、青柳兵長が昭和二十二年春、若松の私の家に尋ねて来て再会したのである。

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