戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年06月08日

人生の転換点・戦後五十年に



下屋敷之義

1280px-Nikolayevsk_Incident-1 五十年前の八月十五日、私は満州(現中国東北部)ハルピンの関東軍兵技兵・教育隊で終戦の「玉音放送」を聞いた。それは入隊してわずか四十五日目であった。

満州事変、日露戦争から拡大した太平洋戦争は、十五年にわたる長期間、日本国内はもとより、アジアと世界を狂気の中に巻きこんだが、すでに全戦線で敗北していた。そんな戦況を反映して昭和十九年には、徴兵検査は従来の満二十歳を一年繰り上げて、二年分の徴兵が行われ、私は第二乙種合格として、沖縄戦がすでに終結していた昭和二十年七月一日、満十九歳で現地入隊した。

兵技兵というのは各種兵器の修理・保守・点検などの技能者集団で、少人数の編成で実戦部隊に配属される兵種。教育隊は一個大隊約一〇〇〇名がハルピン郊外に駐屯していた。

私は入隊前、満州電信電話株式会社(電信、電話、放送の三大事業を担う国策会社で、通称電々と言っていた)ハルピン放送所に勤務していたが、教育隊は五㎞も離れていない目と鼻の先、兵舎からは放送アンテナの鉄塔がいつも見え、軍事教練ではその近くまで行くこともしばしばであった。しかし「皇軍の初年兵教育」は、兵舎での内務班をとりしきる鬼の古年兵のビンタ、班長による革帯ビンタ、同僚との対抗ビンタなど、シャバッケを抜いて(ガス抜きとも言う)「皇軍の魂」を注入される毎日であった。第一期検閲として軍事訓練を一カ月で終了し、技術教育では、経験者ということで雑務についた一週間目の八月八日ソ連軍は一斉に国境を越えて侵攻し、その夜ハルゼンは空襲を受けた。

非常呼集で営庭にでたとき、照明弾が空に浮かんでいるのが見えたが、ハルピン市街から遠く離れていた隊への爆撃はなかった。初年兵の我々には全くといってよいほど情報のない中で、戦況は日一日と不利で、負け戦であることは分かった。明けて九日、「満鉄と電々社員は元の職場で任務につくので帰宅準備をせよ」と、そしてその準備中、今度は「移動修理班として前線に出動する」などと、初年兵への対応でも揺れ動くほど、当時の軍は周章狼狽していた。それから十五日の「玉音放送」を聞くまでの隊の混乱、武装解除、シ

ベリヤ抑留生活などは、私の「人生の転換点」「戦後五十年の原点」となった。

 

 満州第七三一部隊撤収と八・一五

ソ連軍侵攻の翌九日、部隊の慌ただしい動きが続くなか、北東五~六㎞の上空に、延々と立ちのぼる黒煙が止まる事なく昇り続けていた。当時は昨夜の空襲で油倉庫か、軍事施設が爆撃を受けて炎上しているものと思っていた。それを疑う事は私たちにはできなかった。黒煙は八月十五日以降もしばらくは燃えつづけていた。戦争なのでこの程度の黒煙など私の脳裏から消え、忘れ去られる運命のものが、忘れることのできないものとなって蘇ったのは、一九八一年七月一九日から、日刊「赤旗」紙上に連載された「悪魔の飽食」〝満州第七三一部隊の実録〟を読んでからである。以来あの黒煙は《七三一部隊の撤収作戦》の黒煙だと確信するようになり、深い印象となって今でも脳裏に焼きついている。記憶を鮮明にするため、いま一度「悪魔の飽食」を簡潔にふりかえっておこう。

《関東軍はハルピンの南約二〇㎞の平房という町の一角に、約六㎞四方の特別軍事施設を造り、その施設のなかに、多くの中国人、ロシヤ人、朝鮮人、モンゴル人を捕虜として送りこんだ。彼らの大半は、日本軍部の祖国侵略に抗して戦った中国八路軍の軍人、ハルピン市内で逮捕されたソ連赤軍将兵などであったが、中にはまったく無実のまま関東軍特務機関、同ハルピン憲兵隊本部によって捕らえられた学生、労働者、市民も多数いた。若い婦人や一歳~十歳前後の子どももいた。少数であるが白人の捕虜の姿もあった。捕虜はマルタ(丸太)と呼ばれ、第七三一部隊が行う細菌戦研究・実験の生体材料となった。切りきざみ自由、加工自由の材料なので個人名を持たない「丸太」という訳である。この「丸太」は二日に三体の割合で消費され、三〇〇〇人以上が犠牲となった。石井四郎軍医中将を長とする第七三一部隊には多くの日本人医学者、研究者が軍属で勤務していた。》(森村誠一「悪魔の飽食」より)

七三一部隊の施設は、八月九日から十三日の部隊撤収と同時に爆破されたと記述されているが、戦後五十年のテレビなどで、元の隊員の証言が生々しく報道され、その実態が一層明らかになり、戦争の悲惨と非人間的な狂気が浮き彫りにされている。こうした事態について、マスコミだけでなく、日本政府による正式調査と反省こそが求められる。

 

 ダモイの夢破れ―シベリヤに抑留

ソ連侵攻後の部隊は、これが無敵を豪語してきた関東軍かと思うほど無統制であった。八月十一日の夜、土砂降りの大雨をついて「前線に出動する」と、ハルピン市内まで行軍させ、途中から隊へ引き返す。一転して十二日からは部隊の周辺に塹壕を掘るなど、その混乱ぶりは、いま考えると滑稽でさえある。十五日は朝からあの黒煙を見つつ塹壕を掘っている現場に十一時過、部隊長自ら馬で駆けつけ「直ちに全員営庭に集合せよ」とふれまわった。全員整列、重大発表だとして雑音で聞き取れない中でも、戦争が終ったことだけははっきりとわかった。何の感慨もなかった。苦しい軍隊生活がこれで終る喜びで複雑な思いであった。それ以降の三日間は、部隊の倉庫にあった食料は全部空にして、ソ連に渡すのだと、酒から肉、菓子までの御馳走が山ほどあったのは忘れられない。しかしいつまで続く訳もなく、問もなく武装解除され、九月の初め日本に帰る(ダモイ)と言い聞かされ、思いこまされ、ハルピンを行く先も知らされず出発させられた。

破壊されず鉄道のあるところは鉄道で、戦闘で激戦のあった地を、タコ壺で焼け死んだ日本兵、川の中で死んだ馬、その川の水を飲み、水筒にも詰め、必死に行軍すること二日間、途中では開拓団などの婦女子の避難民と出会い「助けて下さい」と言われてもどうにもできず、何らの援助もできない哀れな日本の軍隊であった。こうして着いたところは牡丹江の丘にあった、旧日本軍の弾薬庫跡地の収容所であった。ここで「ダモイ列車」を待つ事になったが、周辺の山々ではまだ戦闘が続いていて時たま銃声が聞こえていた。そこでの日課は食糧調達で、開拓団や中国の農民の人参、大根、砂糖キビなどすぐ腹を満たすことのできるものをねらって失敬した。こうして約一カ月この収容所で暮らした。

収容所では部隊が編成され、その一部はすでに(ダモイ)したとの噂が流れ、実際出発を見送ったこともあった。わが部隊も列車の到着を待って待機することになり、十月中旬には、いよいよ「ダモイ列車」に乗りこみ牡丹江駅から出発した。有蓋貨車を上下二段に仕切った列車であったが、乗って四~五日は希望もある日々だった。しかし列車が停り、用足しに外に出た夜空には、北極星が頭上で輝き、ダモイは夢と消え去った。さらに列車は北と西に向かって進み、四年間にわたるシベリヤ抑留生活が始まったのである。

 

 国際法に基づきシベリヤ抑留問題の解決を

夢のダモイ列車は一転して、極寒地シベリヤ抑留生活への不安を乗せ、バイカル湖の沿岸を三日間走り続け、ようやく第二シベリヤ鉄道の起点タイセットから十九㎞地点の収容所前で部隊を降ろした。すでに先着の捕虜が作業していたが、森林の伐採と道路建設だとのことだった。入所の際には食料など一切持ちこめないので、後生大事にしていた白米を飯盒で炊き、乾パンも食べ、久しぶりに満腹し夕方になって身体検査を受け収容所に入った。ここは一千人は収容できる比較的大きな収容所で、一張りで百人は収容できる幕舎(テント)数張りと、ソ連の囚人がいた木造の建物、炊事場、倉庫などがあった。

収容所の生活は、軍隊そのままで、指揮・命令のすべてが軍隊式、初年兵と古年兵、兵隊と下士官、将校の階級区分は、捕虜生活のきびしい中で、さらに耐え難いものとなり、零下四〇度にもなる極寒のなかでの原木伐採と道路建設の重労働で、疲労と栄養失調のためバタバタと倒れ、病人が続出した。私も翌四六年二月には栄養失調と診断され、ニカ月間、所内の軽作業に回されたが、亡くなった同僚捕虜の墓掘りもさせられ、凍った土を掘るのに大変な苦労となんともいいようもない悲しい思いをした。こうしたなかで、万年初

年兵の私たちはその辛さを同僚間でこもごも語りはじめ、連帯の心をあたためあった。

鉄道の建設を急ぐソ連側は、四六年六月さらに三百㎞も奥地へと日本の捕虜を送りこむため、我が部隊をイルクーツクから、アンガラ河を下りタイセットから三百㎞の奥地ブラーツクに転出させ、伐採、道路、建築などの作業をさせた。

当時まだブラーツクまでの道路がなく、奥地まで送りこんだ数千人の捕虜の食料不足が発生。その解消めざす緊急の道路建設が、四七年二月零下四〇度を越える極寒のなかで突貫作業として行われた。各収容所から日本人捕虜が大量動員され、山林伐採の重労働と寒さ、強引な作業指揮のため、凍傷と栄養失調で病気となり大部分が入院した。しかしこの人たちは治療の後、一足早く日本への帰国が許された。私たちは春になり、再び中間地点まで引き返し、山の斜面に建てられた囚人の収容所に移動し、ここで本格的な鉄道建設と

なった。

ここにきて間もない四七年秋、タイセット地区で旧日本軍兵士の民主運動を指導しておられた岡本博之先生が来所された。岡本先生の講演は、第二次世界大戦後の世界情勢、中でも中国革命の発展、東ヨーロッパの情勢、わけても日本の民主化についての話など、はじめて聞くことばかりで「分かったようでわからない」が実感であった。

しかし収容所では、食事の配分、作業、依然続く軍隊式規律などへの不満が高まり、食料の公正な分配、軍隊式規律の廃止など、日常切実な要求を中心に、古い軍隊式支配の廃止と民主化を要求する運動が自然発生的に起こり、私もその運動に参加するようになった。この運動は反軍、反ファシスト運動として大衆的にも発展し、その後の収容所の民主化に大きな役割を果たした。この運動にはソ連側の指導の下「日本新聞」が六〇万人の日本人捕虜を対象に発行されていて、唯一の情報を提供して知的な要求を満たしてはくれたが、公正な報道であったか否かは大きな疑問も残っている。しかしこの運動に参加するようになったことが戦後の私の人生の出発点となり、自分と家族の幸せを社会進歩のためのたたかいと重ねて生きてきた。

明けて一九四八年四月、この収容所もソ連の囚人といれ代わりで近くの第八収容所に移住し、そこで帰国するまでの二年間、鉄道建設を主とした重労働をさせられたが、幸い元気で一九四九年七月三十日まで四年間の抑留生活を終了し、ふるさと鹿児島の土を踏むことができた。戦後五十年を経過しいま太平洋戦争についてその性格、戦争の責任、個人補償問題などが政治問題として、国際的な問題としても大きな論議をよんでいるが、シベリヤ抑留問題もその中の一つとして未解決のまま残っている。いま全国抑留者補償協議会などが中心となりその解決のため運動している。シベリヤ抑留者六二万名、その内異国の丘に骨を埋めた者六万名、不具廃疾で生還した四万数千名、このシベリヤ抑留の悲劇はどうして起こったのか、国民的に明らかにすべき節目の五十年である。毎日新聞は最近、スターリンが「戦後復興の労働力確保のため」シベリヤ抑留を「対日参戦前」に決めていたことを報道した。こうした国際法を無視した覇権主義がソ連を崩壊に導いたのであるが、その遺産をシベリヤ抑留者六十数万人の犠牲として引き継ぐことはできない。抑留中の労働

賃金はロシヤ政府と日本政府が支払うべきもので、太平洋や東南アジアで連合軍の捕虜になった元日本人兵士の抑留期間の賃金はすでに支払われている。シベリヤ抑留者だけの差別は不公平で絶対許されない。問題の解決は日ロ両政府が責任をもって当たるべきで、なかでも日本政府の責任は重い。

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