戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

更新日:15年06月20日

いま始まった「私と戦後」



澤 幸男

633a8bc082f309f934facd38b254000f_m 「『戦後』は、どの戦争の後なのか」と、屁理屈の好きな私は「戦後すぐの生まれか」と問われる度に聞き返す。事実、私の生まれたあとにも朝鮮戦争やベトナム戦争、中東戦争や湾岸戦争があった。先日のテレビでベトナムの若い世代までもが「ベトナム戦争をほとんど知らない。もう昔のことだ」と答えると報道していた。確かに私自身にとっても湾岸戦争さえ昔のことと、「いま」を意識し「これからどうするか」を考えれば考えるほど無意識的に扱っている。それは私にとって大きな意識の転換をうながさなかったからではないだろうか。若いと強調したいがために「どの戦争か」と問いつづけるであろう私であるが、「私と戦後」を考えるとやはり私にとっての戦争とは、残念ながら、まぎれもなく一九四五年に終わったあの戦争である。それは今の私の意識を形成したのがあの戦争であると思えるからである。

私は一九四七年五月三〇日生まれであり、もちろんあの戦争を体験していない。戦争の直接体験もなく、いわゆる戦後の混乱も記憶にない。両親からの戦争体験の話しを詳しく聞いたこともなげれば身内に戦死者もいなかった。従ってあの戦争についての強烈な意識は大人になるまで持たなかった。では、どうしてあの戦争が今の私の意識を形成させたのだろうか。

私の小学校時代は、入学式や始業式、終業式やなにかの行事があると必ず講堂の正面に「日の丸」が掲げられ「君が代」を歌った記憶がある。「歌った」のであって「歌わされた」のではないというのが正直な記憶である。私は大学入学まで三重県の松阪で過ごした。今はその主張さえ放棄したが、「教え子を再び戦場に送るな」とのスローガンのもとに激しい闘いを繰り広げた日本教職員組合において、三重県はその「御三家」と呼ばれるほどだったと聞かされた記憶がある。にもかかわらず、私の受けた教育は平和教育であったとの強い印象はない。それどころか、いま思い出すと、すすんで「君が代」を歌い、素直に「日の丸」に向かって礼を尽くした。少なくとも小学校のある時まで。

私の友達の家にテレビが出現したのはいまの天皇が結婚したときである。友達の家であの婚礼の馬車の行列を見た。そして友達と、まさに性にめざめた年頃にふさわしい話題?、「皇太子も美智子さんもSEXをするのだろうか」と話し合った記憶がある。当時の私にとって天皇も皇太子もまだ人間ではなかった。

同じ頃、一人で親戚の家に約一時間ほどかけて自転車で行く機会があった。その途中に、電灯もなく、屋根まで板葺きの、とても人の住んでいるとは思われないような密集家屋の横を通った。帰って両親に問うと「部落」との説明を受けた。それだけでなく、母からは「どんなことがあっても部落の人とは結婚しないほうがよい」との話しを聞かされた。それまで両親の言うことに大きな反発を持った記憶はないが、このときばかりは大いに議論した記憶がある。

いまから考えると、この二つの体験がその後の私に徐々に「人権」や「平等」の意識を与え、いまの私の思想的位置付けを与えたのではないだろうか。

では、私のこれらの体験において、人を等しく人と思い、たとえ親の意見であろうと間違いだと感じたその意識の背景は、いったいどうして生まれたのであろうか。

前述したように三重県に育った私の家は、父方の実家が伊勢神宮の氏子にあたる神道を家の宗教としたように、父も熱心な神道の信奉者であった。父は、正月はもちろんのこと、春分の日や秋分の日に家の神棚を飾りたて、勤労感謝の日にも神棚に塩や米を供えていた。新嘗祭のまねごとをしていたのである。しかし、私が保育園から小学校にかけて近所の年上の人から誘われてルーテル教会に行く(実際の目的はお祈りでなく、記念にもらうカード集めのようだったが)ことに何の反対もしなかった。職業軍人であった父であり、教育勅語を私にも教えたが、それを私に強制はしなかった。天皇制についても積極的な肯定を私に薦める話しを聞いたことがない。父自身は天皇に対するある種の感情を懐いていたようであるが、「万世一系の天皇之を統治す」とか「天皇は神聖にして侵すべからず」との天皇制を支持していたと思うふしはなかった。父がどうして最後まで神道を信奉しながら天皇制の強烈な信奉の呪縛から解き放たれたのか、終ぞ聞き損ねた。それは私が高校二年の秋に他界し、その当時までに父とそうした会話をするまでに私自身の意識がなかったためである。

このような中で私は育ったのであるが、いま考えるとこうした自由な雰囲気がいまの私を生んだのであろう。自由は私にとってあたりまえの事実であり、空気のような存在であった。しかし、この自由が貴重な多くの命と引き換えに闘いとられたものであり、それを自ら守る闘いをしなければいまの自由さえ後退することを知ったとき、私は、空気であった自由がひどくか弱い存在に思われた。そして、このことを意識すればするほど、いまの私に到った自由の背景に想いを込めざるを得ない。

あの戦争が直接、私の意識形成に大きな影響を与えたということではなく、あの戦争の敗北によって転換を余儀なくされた価値観のなかで私の意識が形成されたという重みを受け止めれば受け止めるほど、わたしにとっての戦後とは一九四五年八月一五日に終了したあの戦争しかないのである。しかも、あの戦争にとどまらず、あの戦争以前の戦争を意識する。

ときは流れ、私は確実に未来に向かって歩みをつづけている。しかし、私の意識は自由の重みを深めるほどに一九四五年八月一五日から戦争の歴史を逆行するのである。あたかも、私のルーツをもとめるように。

「私と戦後五十年」を考えれば、「私と戦後」はいま始まったばかりである。

<< >>