戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年06月20日

私の原風景―戦後



中園 哲

(1 敗戦の日)
046c6e287070976724f7e5e5e6df896b_m一九四五年八月十五日-この日は、史上初めての無条件降伏をした日本という国家にとってはもちろんのこと、さまざまな人々にもさまざまな意味で「運命の日」であったに違いない。しかし、一九三〇年生まれのそのとき十五歳でしがなかった私が、その日の印象的な記憶として思い出すのは、いささか場違いなようだが「静寂」といったものなのである。それも言葉本来の意味の「静寂」ではなく、何というか、けだるい一種の脱力感、重い徒労感のまつわりついた「異様な静かさ」である。

当時日本最大規模の総合化学工場として、各種の爆薬はもちろんのこと医薬品や毒ガスの原料に至る戦争遂行に不可欠の化学製品の生産にフル操業を続けていた、大牟田市の三池染料工場のいわば心臓部であるO発電所が、動員生徒としての中学三年生の私の「職場」というか「戦場」だった。発電所には微粉炭を燃料とする巨大なボイラーが三基と、そこでつくられる高圧蒸気で回転する三組のタービンにそれぞれ直結された大型の発電機があって、私たち生徒一〇人足らずの班が働いていたのはボイラーの方である。高さが四階建のビルほどもあったボイラーは、一基が英国製、二基がその「改良型」と称するデッドコピーの国産品だった。どこを「改良」したのか国産ボイラーはしょっちゅう具合が悪くなって整備や修理をしなければならず、通常動いているのは英国製と国産品一基の計二基であった。国産品は二基で英国製一基分と悪口を言ったものだ。

巨大なボイラーの、高さでいうと二階ぐらいのところに鉄の床が張ってあって、各種の計器やバルブ類を操作するハンドルなどを備えた制御盤があり、私たちはそこに詰めていた。床下からも隣室からもボイラー自体からも、すさまじい騒音と振動が一日中寸秒の絶え問もなく襲いかかり、室温はめったに三五度以下には下らず、その中での勤務時間は朝七時から夕六時までの十一時間の日勤と夕六時から翌朝七時まで十三時間の夜勤の二交代制、当初生徒は日勤だけということだったが、戦争も末期になると夜勤もした。

ボイラーの頂上に石炭のホッパーのようなものがあって、そこから太いパイプで地階の粉砕室へ送られた石炭は、轟音とともに回転する巨大な粉砕機でまるで水のように流れる微細な粉炭にまで砕かれ、圧力をかけた空気と混合されてボイラーの底部から吹きこまれる。そして高温で燃えながら縦横に走る水管の間を抜けて頂部から煙突へと出ていくのである。水管の中で発生した高温高圧の水蒸気は隣りの発電室へ送られてタービンを回すのだが、その蒸気の温度や圧力を一定に保つよう、計器をにらみながら吹きこむ微粉炭や空気の量をバルブを操作して加減するのが私たちの主な仕事であった。奇妙なことに英国製のボイラーは扱いやすくてバルブ操作にも素直に従う。ところが「改良型」のはずの国産ボイラーはまさにじゃじゃ馬、バルブを開いてもなかなか圧力が上がらない。圧力が足りないとすぐさま発電室から文句が飛び込んでくる。やっと圧力が上がり始めると今度はとめどもなく上昇し続ける。基準圧力のずっと手前でバルブをしぼるのだが、圧力計の針は上がり続けて危険を示す赤のラインを突破し、ついには安全弁が開いて、大怪獣の絶叫のようなすさまじい音が響き渡る。赤マークをぐんぐんオーバーしていく計器をみていると、まるでボイラーがみるみる膨れあがって今にも爆発するのでは…とスリルがあった。

だから、その日の勤務が英国製にあたるか国産の方になるかは大問題だった。運よく英国製に当たるとのんびり座って、国産組が班長の怒声(でなければ騒音で相手には聞こえない)を浴びながら休む間もなくバルブを開けたり締めたり、ボイラーの頂上へ鉄梯子を駆け登ってホッパーや詰まった送炭管を大きな木のハンマーでたたいたりするのを見物できる。このホッパーたたきは、セ氏四〇度を超える熱気のこもった場所でフンドシ一つの全身から汗を飛び散らせてハンマーを振りまわす地獄の赤鬼さながらの大奮闘だ。勤務後のくたくたの体を浴槽に沈めながら「ボイラー一つでもこうだからこの戦争勝つわけないよな」と生徒同士実感こめてぼやいたものである。

そのようなボイラーでも大化学工場の心臓部。何があろうとストップさせるわけにはいかない。戦争も末期になると毎日のように沖縄から米軍機がやってきて、爆弾を落としたりロケット弾や機関砲弾を好き勝手に撃ちこんでいった。空襲警報が出ると工場の裏山にそれぞれが掘ったタコツボに避難するのだが、そのときでもテイのいい犠牲部隊の「当番」を何人か残して、発電所は動かし続けた。ある日のこと、警報解除で戻ってみると国産のボイラーがストップしている。何でも屋根のほうで大きな音がして何かがホッパーに落ちこんだらしく、いくらたたいても送炭が止まったままだという。ホッパーの中を調べたら大きな爆弾がもぐっていて大騒ぎになった。不発弾ならいいが時限爆弾なら発電所は人間もろとも全滅だ。それでも避難するわけでもなく私たちは残る一基の英国製のボイラーは動かし続けた。半日たって軍の処理班が爆弾をチェーンで吊り上げ、地面に降ろした。250キロ爆弾だったが、ごろりと横たわったそいつを「心配させやがって、このポンコツめ!」と誰かが蹴飛ばした。とたんに作業を監視していた憲兵は顔面蒼白「ばか!爆発するぞ!」と大慌てで制止する一幕もあった。

とにかく、そのようにして動かし続けてきた発電所が、この八月十五日の昼ごろ完全にストップしたのである。

敗戦のニュースが入って、何やら暗い顔でボソボソ話し合っている大人たちを尻目に、私たち動員生徒はさっさと風呂に入り、発電所の裏口の階段に寝そべって風に吹かれながら高い工場の建物の間の空を眺めていた。白っぽい青の、まさしく真夏の空だったが、とりわけて暑かったという記憶はない。常温で三五度という勤務を一日十一時間、半年も続ければ、普通の寒暑の感覚などなくなってしまう。誰かが「こう静かだとどうも変だな」と眩いた。骨ががたがた鳴るような石炭粉砕機の轟音と振動、ボイラーの中で荒れ狂う炎の地鳴りのような捻り、脳天にじかに突き刺さるようなタービンや発電機の高周波音。これまで一時も止むことのなかったそれらの音の全てが息の根を止められたように沈黙していた。「静かになって、一巻の終わり」と別の誰かがいった。

それを聞いたとき思わず(骨折り損のくたびれもうけ)という文句が浮かんできて、苦笑いしたのを憶えている。本土決戦で、南九州に上陸して海岸線沿いに北上すると想定された米軍を迎え撃つ国民防衛隊が、大牟田でも結成されつつあった。私たち中学生はその一翼として沖縄と同じように生徒決死隊を組んで前線に立つはずだった。そのための訓練の数々…。肘に血をにじませながら何時間も校庭を這いずりまわったほ伏訓練、タコツボから飛び出して戦車に見立てた大八車の下に身を投げ出す自爆訓練…(初めは戦車の下腹にくっつける吸着爆雷、戦車の上に投げ上げるザブトン爆雷や棒の先につけた刺突爆雷などの訓練だったが、沖縄戦でアメリカの戦車には効果なしとわかり自爆訓練に変わった)。必ず死ぬことを前提としたあの猛訓練の何もかもが全くの徒労だったとは…。

みんな黙ったまま、ずいぶんと長い時間、空を見ていた。とにかく静かだった。

そして、やっと誰かがいった。「九月からは学校が始まるんだろうな」。心底うんざりした響きがあった。学校が始まるということは、もう何年も前に消えてしまった日常の日々が戻ってくることだ。私たちはその日常の生活の中へ帰っていくのである。だが、どうすれば帰っていけるのか?考えるのも億劫だった。それまでのように「どうせもうすぐ死ぬんだ」と決めていた方がよほど簡単だった。それに、そもそも帰っていく先はあるのか?…ほんの二〇日前の大空襲で家も家財も根こそぎ焼かれた。家族は離散し、四歳になったばかりの末の弟は医療もろくに受けないまま急死していた。私は父と二人、遠縁の親戚の庭先に掘られた横穴で、飯盒で炊事しながら暮らしていた…。

(2 還りゆく道)
九月一日(だったはずである)登校。久しぶりの、大牟田市郊外の小高い岡の上の古びた木造の校舎は何ごともなかったようにたたずんでいた。考えてみれば校門への小さな坂道を、新入生のわくわくするような期待感と緊張感でいっぱいになって登っていった日からわずか二年と一つの学期しか過ぎていないのである。校舎は変わらないが、私たちはすっかり変わっていた。そして学校の外では、連合国軍マッカーサー総司令官が厚木飛行場に降り立ったのは二日前、数日中には降伏文書への正式な署名も行われる予定だった。日本は変わったし、まだまだ何もかもが激しく変わろうとしていた。

友だちや同級生たちと会う。みんな変わってないようでもあり、すっかり変わってしまったようでもあった。話題はどうしても八月七日の空襲で爆死した七人のクラスメートの話になった。…-腹が破れて腸がはみだしているのにTのやつ、痛いのいの字も言わずに先生すみませんすみませんとそればっかり言いながら死んじゃった。それなのに教師は「ちゃんと避難せんからお前が悪い」と責任逃れのお説教をするばかり。防空壕が直撃されてやられたのに。…:女学生も含めて何人もがバラバラになっていたので手は手、足は足と拾い集め、あとで頭を中心に人形でも作るみたいにこれはだれの手、これはだれの足というぐあいに一人ひとり死体を組み立てたんだ…。

空襲の後の死体の確認については私にもひどい経験がある。七月二十六日夜の大空襲の翌日、あたり一帯の焼死体は魚市場に集めて並べられた。普通なら魚や魚箱が並ぶわずかに傾斜したコンクリートの床の上に、黒焦げや防空壕の中で蒸し焼きになった死体、池や溝の中で煮えてしまった死体が何十何百も並べられ、その間を生き残った親類縁者が変わり果てた身内を探しあぐねてさまよっている。私は匂いをかぎつけて(最初のうちは何とうまそうな匂いがしたことだろう。やがて炎天の下で何とも言えないあの死臭に変わっていくのだが…)寄ってくる(前夜までは飼い犬だったはずの)野良犬を追うため、棒をもって半日近くを張り番に立っていた。五〇年を経た今でも、焼き肉や焼き鳥の匂いの中に、そのときの光景が鋭くよみがえることがある。

そうこうしているうちに、全生徒は校庭に集合せよと指示があった。習い性となっていたというべきか、広い校庭に学年別にきちんと整列すると私たち三年生はちょうど中央である。全体を見渡すと一年から三年までは人数はほぼ同じだが、隣の四年、五年の列はぐっと短くなっている。征つたきり還ってこなかった者がそれだけいたのだった。そして、その短い黙りこくった列から一種不気味な一触即発といった雰囲気が立ちのぼっていた。すべてのものに裏切られたという深い絶望をはらんだ、どこに向けようもない怒りだったのだろう。

やがて指揮台に配属将校のS中佐と何人かの教師が立った。S中佐の長年号令で鍛えたよく通る声が低くしゃがれて響いた。私たちは本日をもって本校を去る。誤って日本を今日の亡国の非運に導いたことを諸君に深く詫びる。全く申しわけない。いろいろな思いはあろうが日本を再建する者は諸君たちをおいて他にないのだから、どうか自重自愛、立派な日本人に成長されたい…。それまで通りのむだな言葉の一切ない短い訓辞だった。「S先生に敬礼、頭(かしら)―中!」の全校生徒の注目に、びしっと決まった挙手で答礼した老中佐はゆっくりと一年から二年、三年、そして四年から五年生の列へ視線と体を回した。がっしりした長身、軍帽の下のいかつい赭顔…。実はS退役中佐は正規の配属将校ではなかった。正規のそれはM大尉、騎兵将校という噂のちゃらちゃらしたいかにも要領をもって本分とすべしといった男で、軍刀の鞘で生徒をよく殴った。そのM大尉は敗戦と同時に逃亡して姿を消していたのである。S中佐には、何か粛軍運動に関係して退役させられたとの伝説があった。五〇キロの長距離行軍でも雨中の行軍でもその姿はいつも生徒の列の中にあり、行軍も終わりに近くなると歩き疲れて休憩と同時にばたばた腰を下ろす私たちの間をいささかの疲れも見せずに悠然と巡視する姿に、幼い私たちは「大陸を歩きまわった日露戦争の生き残りにはかなわんよ」と負け惜しみ半分でぼやいたものだ。何れにせよS中佐のこの訓示が、責任のある立場の人間から敗戦について私が聞いたほとんどただ一つの率直な謝罪である。当時、政府やマスコミは「一億総懺悔」を唱えて自らの責任を何とか回避し、意地汚く居座りを続けようと懸命になっていた。

そのあと、私は生物教室の標本室に行った。二年生の一学期に私はその標本室でおおげさに言うなら新しい世界を発見したのだった。学校を出たばかりの若い教師O先生に、顕微鏡で微生物の世界をのぞかせてもらったのである。暗視野装置で暗くした中をゆっくりと動き回る精巧なゾウリムシやヤムシ、ミドリムシ、ケイソウ…初めて見る小さな生き物だちの姿は、私には神秘に満ちた自然の驚異そのもの、何時問も顕微鏡にしがみついて離れなかった。毎日の放課後を待ちかねたように生物教室に通いつめて、学校中の池やプールなどから採集した標本を持ちこんだ。その私の熱中ぶりをO先生は半ば呆れ、半ばおかしがりながら、独特のはにかんだような微笑を浮かべて、黙って見ておられた。しかし、間もなく私たちは工場ヘフルタイム動員となり、O先生にも召集令状が届いた。出征の日、全校生徒の前で指揮台に立ったO先生は「もう坊やではありません!」と叫ぶように挨拶され、ひょろりとした長身を斜めに傾けて見るからに不器用な挙手の答礼をされた。「坊や」というのがO先生に私たちがつけたあだ名、というより愛称だったのである。どう見ても不似合いなO先生の軍服姿に「あれじゃあ戦場で真っ先にやられる」とみんなで心配したとおり、O先生の姿を二度と見ることはなかった。

その思い出の生物標本室は、無残な姿に変わっていた。ガラスは割られ、剥製や資料類は床に投げ出されてそこら中に散らばっていた。深夜二時になるとカチカチ歯を噛み鳴らすという「怪談」の持ち主の人体骨格標本も倒されていた。そして、O先生がこれは世界一のツアイス製だと自慢されていたあの顕微鏡は姿を消していた。学校に駐屯していた対空部隊が敗戦のどさくさにまぎれて何もかも荒らしていったのだった。後年、中国を始めアジア各地での、あるいは沖縄での日本軍の暴虐ぶりを読み聞きする度に、私はいつも荒らされた生物教室の惨状を思った。自分の国の学校すら略奪する連中である。よその国に押しかけた場合何をやらかしたか…およその想像はつく、と。

数日たって、身体検査-今でいう健康診査があった。上半身裸で胸に聴診器を当てられていた私の隣の列で、その目はどうしたんだ?と、たずねる教師の声に、ほんとに聞きたいですか?と問い返す、低いがギクリとするような声が聞こえた。その声には斬りつけるような殺気があった。見ると五年生、美少年という言葉どおりの高い鼻の眉毛の濃い色白の顔の、左目を黒い眼帯で隠している。特攻隊帰りの先輩だった。噂では沖縄めざして出撃したが途中エンジン不調で南の島に不時着、その時左目を失った。しかも、彼はそのあと、死ぬことを恐れた卑怯者として死んだも同然のようにどこかに「隔離」されていたらしい。残った右目でまっすぐみつめられた教師は慌てて視線をそらし、逃げるように部屋を出て行った。これ以上はないひどい心身両面の地獄。十七歳そこそこの少年をそんなところに送りこんでおいて、その目はどうした?と第三者のような顔をして平然と聞くその厚顔無恥…。同類は戦後五〇年の今も多い。

それからかなりの間、上級生とりわけ五年生の教室は荒れに荒れた。軍隊時代の(私たちの憧れであった白鞘の)短剣持参の者はざらであり、拳銃を天井に向けて発砲した者もいたと聞いた。木造の古い平屋の校舎だったからよかったようなものの…。

(3 デモスのクラトス)
民主主義について、戦後初めての授業を受けたのは、敗戦から一年近くも過ぎた一九四六年の夏休み前だった(ような気がする)。講師は西洋史のO先生、スマートな長身に細いフレームの眼鏡をかけた背広の似合う紳士だった。今日は民主主義について勉強することにします、と前置きして黒板に大きく民主主義と几帳面な字を書かれた。続けてその下にカナでデモクラシー、デモとクラシーの問が少し開いていた。民主主義の原語は英語のデモクラシー、それは古代ギリシャのデモスつまり民衆と、クラトスつまり政治という二つの言葉を合わせたもので「民衆による政治」を意味するといったことを話しながら、黒板に書かれたデモとクラシーから矢印を出してそれぞれにデモス、クラトスと記入された。そのあとに貴族政治や君主制などの説明が続いたと思うが、それについてははっきりした記憶はない。ただ、この授業のあと「デモスのクラトス」が私たちの問でしばらくの間ちょっとした流行語になったことはよく覚えている。

そのうちに、今度は別の形で「民主主義」がやって来た。どこからともなく中学校のストライキが流行っているという噂が流れてきた。福岡でも久留米の明善中学でもストをやったらしい。柳川の伝習館でも近くやるという。ウチでもひとつ…という空気がみるみる盛り上がってきて、柔道場に集まって全校生徒総会となった。五年生は進学や就職に響くから私たち四年が矢面に立つことになり、要求をまとめ、学校の敷地内にある校長官舎の応接室で「団体交渉」を開いた。要求事項は簡潔に三項目。校長の回答は次のとおりだった。①映画鑑賞の自由化→認める。(それまでは学校の許可が必要だった。)②長髪の自由化(それまではもちろん全員坊主頭)→認める。ただし髪を伸ばしたらきちんと床屋に行くこと。③男女交際の自由化→認めない。その理由を校長は「県立高女の校長とも相談したが向こうでは男女交際を求める声はなく、あっても学校として認めるつもりはないそうだ。だからウチだけが許可すると、たとえば二人で映画にいって見つかった場合、女の方だけが処分という困ったことになる。公平じゃないし、君たちも本意じゃあるまい。この件はここ当分校長預かりにしてくれ」と説明した。

回答を持ち帰ると、生徒総会は歓声とともに承認、ストライキはあっさり中止となった。みんなの関心は映画鑑賞の自由化。本気で髪を伸ばそうなどと考えている者はいなかったし、焼け野が原の市内には床屋もろくになかった。男女交際の自由化に至ってはごく一部(いつでも軟派はいた)を除けばみんなにとって関係も関心もなかった。しかし、今から考えてみると、この一年半後には新制高校に移行して男女共学になってしまう時代だったというのに、学校側も生徒の方も、相当に呑気ではあった…。この頃には教職員組合も結成されていて、わが三池中学のそれはかなり活発に活動していたはずなのに(担任のK先生は後年県高教組を経て参議院議員になった)、そのことについては全然気もつかなかった。

この頃から本当の意味で私の「戦後」が始まったのだと思う。何よりもまずスポーツに夢中になった。それまではせいぜい野球と角力、陸上競技くらいしか知らなかった私たちの問に、体育のM先生が何ともさまざまなスポーツを持ち込まれたのである。体育の時間が来るたびにほとんど毎週何かしら新しいスポーツを教わった。私たちは古くて重い軍靴で懸命にサッカーボールを蹴り、上半身裸にはだしでラグビーのスクラムを組んだ。体育館はなかったので、バレーボールもバスケットボールも戸外でやった。まだ野菜畑にされたままだったテニスコートで、M先生に「アメリカでは生で食うそうだ。ひとつ食ってみろ」と言われて初めて食べたピーマンの何とも変な味は今でも忘れられない。その野菜畑もやがてテニスコートに戻った。剣道場でも柔道場でも卓球やレスリング、体操と言った室内スポーツの花盛りだった…。あの何もなかった欠乏の時代に、M先生はどこからあれだけのボールや用具類を調達してこられたのか、いま考えると不思議でしょうがない。ハンドボールをやったり、何とアメリカンフットボールのボールを投げたことさえもあるのだ…。

そのうちにいろいろな「部」つまりクラブが生まれていった。私たちは篭球部つまりバスケットボール部をつくり、文字どおり熱中した。誰にも強制されず、強制することもなく、すべてを自発的に、力いっぱい生きることの何という楽しさ。シューズは地下足袋、それも対外試合のときだけ大事に履いて、ふだんの練習ははだしでやった。相変わらず食べるものもろくになく、空腹で我慢できなくなると水をがぶ飲みしてごまかした。その学校の井戸水の何と冷たくてうまかったことか。練習を終えての帰り道、西鉄銀水駅で電車を待ちながら、友だちと一緒に構内の草原に寝転んでよく空を見上げた。澄んだ藍色にゆっくりと暮れていく空に淡い夕焼けの薄紫がいつまでも残っていた。敗戦の日に夏空を見上げていたときの徒労感・空虚感はもうなかった。その頃は、父の勤める学校のただ一つ焼け残った畳四枚を敷くのがやっとの小さな用具小屋に、親子六人が折り重なるようにして暮らしていたのだけれど…。

それからもう五〇年が過ぎた。ずいぶんと遠くまで歩いてきたようでもあり、寄り道ばかりしていて、結局はいくらも来ていないような気もする。

資本論の扉に書きつけられた「汝の道を歩め。人々をして言うにまかせよ」の言葉そのままに走り抜けた二〇代。労働組合運動に没入して集会やデモ、暴力団や権力との対峙に三〇代も飛ぶように過ぎていった。一九六〇年と七〇年の二つの安保、三池にエンタープライズの佐世保、ベトナム反戦…。四〇歳を過ぎる頃からの反公害運動、そして市政をめぐる運動と何回もの市長選挙…。初めて(オレももうトシかな)としみじみ実感したのはその頃流行ったフォークソングの、ジョーンバエズやブラザースフォーの瑞々しい若さあふれる歌声を聞いたときである。(この国はあなたと私の国この国はあなたと私がつくった国)と歌う「祖国」がとりわけ好きだった。あの時からさえも、もう三〇年近くが過ぎた。

社会にも私の人生にも、さまざまなことが起きては過ぎ去っていった。その間に、戦災で荒れ果てていた街は明るく整えられ、人々の暮らしは以前とは比較のしょうがないほど豊かになった。日本は変わり、世界も大きく変わった。しかし、いま、蝉しぐれの中で昔と変わらぬ夏空を見上げると、あのバスケットボールに熱中していた日々が、初めての生徒総会が、いや敗戦の日の異様な静寂や荒らされた生物教室の無残な光景までが、遠い五〇年の昔に起きたことではなく、まるですぐそこにあるかのように思われるのである。多分、この敗戦の日に始まるいくつかの出来事こそが私の人生の「原点」、折にふれてはいつも立ち戻る「原風景」なのであろう。そして私自身の五〇年は、幸いにもこの原点にあまり背を向けることもなく過ごせたように思う。O先生の「デモスのクラトス」は、この五〇年の間に必ずしも十分に根付いたとは言えないにしても、私の人生に対してはささやかながら充実した果実を贈ってくれたようである。

遠い昔の子どもの頃の八月十五日―お盆を過ぎると山からアキアカネの大群がやってきた。小さい私たちはそのアキアカネの群れの中をまるでかき分けるようにしながら歓声あげて走りまわるのだった。その懐かしい思い出の中の情景には、大空襲の夜奔流となって流れる火の粉の河をかき分けながら父と二人で逃げ惑った悲しい情景が、二重写しのように重なって思い出される。

この五〇年が日本にとってともかくも平和に過ぎて、第二の「戦後」、新たな「戦後」はなくて済んだ。それが何より大切なことだと思う。そして、誰にとっても「戦後」という区切りを必要としない世の中、戦争でその歩みを区切られることのない社会と世界が、これからいつまでも続いてほしいと思わずにはいられない。

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