戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年07月04日

一週間の戦争



森 明

 

(一)一九四五年八月九日のこと

(1)

images一九四五年八月九日は私は二十三才でした。「下城子」という北満のソ連との国境に近い町の満州第四三八七部隊(福岡24師団・下関重砲兵連隊、連隊長は纐纈哲三大佐)第三中隊の二番砲手(注1)。階級は陸軍一等兵でした。

私は一九四三年一月に福岡、いまの平和台球場や裁判所のある福岡城(舞鶴城)に入営した現役の兵隊です。三年兵で星二つ、一等兵というのは中隊でも何人もいませんでした。

大学出なら少尉に、中学出なら伍長に、私のような小学校出でもふつうなら上等兵にはなっているはずです。

こんな兵隊を中隊では「員数外」(つまり数の中に入らないモノという意味)と呼んで転属用員にしていました。人を殺すことを名誉にしている軍隊の組織では中隊にいらなくなった消耗品は「員数」にして役に立たせるのが「転属」です。とくにこの頃のように戦局があわただしくなると毎日のように「転属」の命令が出て、南方の戦場につぎつぎ送られていました。

 

(注1)

砲口の直径が四十五センチの榴弾砲を一門、各中隊はもっていました。

元来この砲は要塞砲と教えられました。「コンクリートか何かで土台をかためて、すえつけて動かさないのなら、効果が少しはあるかもしれないが、えんやら、えんやら引っぱったり、穴ほったりして、やるんじゃあ使いものにならんよ」兵隊たちは言っていました。

重いから四つに大砲を分解して「挽曵」。兵隊の肩で「いち、に」「いち、に」と号令で何十人かが引っぱって陣地につく。こんどは穴ほりです。直径が約十メートル、深さ約ニメートルの穴を「右手前ッ」「左手前ッ」棒状のスコップ(兵器)のもち方まで号令で「交替用意ッ」「交替ッ」どれだけ早く堀り上げるかが訓練されるのです。

穴が堀り上がると鉄板や鉄骨で、弾丸を発射しても動かぬように鉄のくさびでつなぎ、からみ、組み合せ、土台の骨ぐみをつくります。そして埋めもどし。その上に「砲架」「架橋」「砲身」などを組み合せ乗せるのです。

このしごとを私たちは一年目は三日かかりました。三年目は一晩でできるようになりました。

こうして六人(?)で肩でかついで弾丸をいれます。三番砲手が方向をきめ、二番砲手の私は距離を照準します。一番砲手は兵長か下士官です。五メートルぐらいの長さの「リュウジョウ」(綱のこと)を撃鉄にひっかけて後に下がります。右手を高くあげて構えます。隊長が「射てッ」一番砲手は身体をよじらせて「カチン」撃鉄の音がします。

 

私は一九四五年八月九日朝、兵舎の三番立ち(三交替)の不寝番でした。

その朝はなぜか完全軍装で点呼を受ける達示がありました。私はしっかり巻脚絆も巻いていたので、至極のんきな気分で夜明けをむかえていました。

北満の八月はもう秋の気配がして虫の声も聞えていました。

二、三日前、人事掛りの準尉から呼ばれました。

「…森は階級は何か、一等兵が兵器掛りの助手をしていると将校集会所で話が出たそうだ。…この次は進級させんといかんなあ」

用事はそれだけでした。

中隊では(一)にヨーチン、(二)にラッパ、(三)に倉庫の油虫といわれていました。兵隊の間で楽なところというのでしょうか、どうして私が兵器掛りの助手(兵器庫の油虫)になったのか、よくはわかりません。でもどの中隊でも兵器掛=助手は兵長です。被服係にしても上等兵です。三中隊の兵器掛=下士官は田村軍曹です。中隊の最右翼の下士官です。「員数外」と思われている私がなぜ兵器掛=助手に任命されたのか人事掛りの(兵隊からいちばん恐れられ嫌われている)准尉は知っているはずです。

この年、一九四五年四月から私は兵器掛=助手になりました。

上靴で戸外に出ることは堅く禁じられていました。私は廊下の土間の汚れたすのこ板をけって兵舎の横にでました。部隊本部のだらだら坂を朝日を背に、銃を負ったラッパ手が起床ラッパを吹きにゆくのが見えました。夜が明けたばかりだというのに、もうむっとする夏の暑さと空の晴れわたった青さが「あー今日も暑くなるなあ」と思わせました。

その空のかなたに鳥が二羽、もつれるように飛んでいました。「おや?」見るまに二機の飛行機は急降下をしました。遠くて爆音は聞こえませんでした。演習でもやっているのかな。キラキラと光ったかと思うと急に機首を地上にむけてつっこみました。パリパリという機銃の音が爆音とともに聞えました。

急に兵舎の後方「朝日ケ丘」の丘陵から耳をつんざくような激しい爆音。白銀の機体と乗っている人の顔が見えるくらい兵舎に近づきました。あたりをゆるがす爆音と機銃掃射の金属音、バリバリ、土煙が一直線にはね返る、プス プス プス。

いそがしく思いがめぐりました。いったい何が起きたのだろう。夢か。激しい音はすぐ遠ざかり、しばらくするとまた近づいてきました。

私は「空襲だッ」と怒鳴って兵舎にかけこみました。その背中に非常呼集のラッパが鳴りました。

それからのことは余りよく覚えていません。「あわてるな、戦争が起きたんだ」身仕度もすませて、だれよりも早く目ざめていた私がいちばんあわてていたようです。

弾薬受領、兵器受領と兵器工場と兵舎の間を何回か往復しました。武器といっても銃架の9・9式小銃は砲手班(五十名もいたでしょうか)で五挺しかありませんでした。この銃をにぎったのは日ごろ銃など見むきもしない五年兵、六年兵の古年次兵でした。

何をしたかわからない中で下着を替えて、一装用の軍服、真新しい靴下をはいていました。

砲舎に行って四十五センチ榴弾砲の挽曵準備をしました。もう敵の飛行機はきませんでしたが、砲舎も練兵場の草も土も雲さえもが何か勢いづいているように思えました。

いよいよその時がきたのだ、いつかはやってくると思っていたその時がきたのだ。どうなるかはわからない、しかし戦争は南方でなくここではじまったのだ。ソ連軍はもう国境を超えてどこそこまできている、先頭の戦車はあのノモンハンで使われた戦車である。

次から次に出る命令。通達と同じ量と速さで「私的情報」がきこえてきました。

三中隊の砲手班で「時節到来」とはりきっていたのは福岡の下関重砲兵連隊に入隊した三年兵の私たちと同じ四年兵、太田兵長や中原ユウさんらのいつ転属させられてもいいと言っていた兵隊たちでした。

(一九八五年八月二日)

 

(2)

一九四五年八月九日の朝のことは、脈絡つけて思い出すことはできません。映画の一シーンか一カットのようにすべてコマ切れで、ところどころをはっきりと覚えています。

なぜそうなったのかという大事なところは空白です。これは十八年前、私が脳出血で倒れ、死ぬまでにはこのことぐらいは書きのこしておきたいと、思い出そうと努力してもそうです。

非常呼集のラッパがなって騒然となった兵舎の中で

「モタモタするなッ、戦争がはじまったんだッ」

「初年兵や補充兵はまず自分のことをやれ、おくれるな、ボサボサしていると殺されるぞ」

「もう古年次兵のことなんか構うな、自分のことを自分でやれ、戦争がはじまったんだぞッ」

だれよりも上気して初年兵や補充兵たちに向って怒鳴っている私でした。

私自身どんな思いで、連隊長の初年兵の教育方針「初年兵とベトンは叩いて鍛えよ」という公然たる「私的制裁」に反抗してきたか。意識的ではなかったもののこの「軍隊」という機構と組織、その精神の愚劣さに怒りをもっていました。「上官の命令は朕の命令と心得よ」菊の紋章のついた兵器は人間の命より大事にされました。そして、それが昴じて、階級のちがい、軍隊生活の年月のちがいがどんなに「私的」な制裁になってエスカレートされるか、ほんとうに人殺しをしなければならない集団にふさわしく人間性を全く喪失させられてゆくそのことへの怒りでした。

私だけは理由がないのに「私的」な制裁はぜったいやるまい、二年兵になって実行しました。私の思っていることが明らかになるとそのために私は「制裁」をうけました。

ほんの二、三日前も私は「関特演」(関東軍特別大演習のとき召集されそのまま帰されない五、六、七年兵もいました)の兵長から深夜起こされて洗面所で「上靴ビンタ」を受けました。

「きさま上級者に反抗しているのか」というのです。

「もしここで兵長どのと私が何かあったとしても、陸軍刑法による反抗罪は成立しませんよ、なぜなら反抗は上官に対してだけであって、上官とは尉官以上です。階級の兵長は兵隊です。兵隊同志のいさかいなら両方が処置されるはずです。」

三年兵になった年だから一九四五年。兵器掛助手になる前、同じこの場所で五年兵からやはり「上靴ビンタ」を数えて三十六回までうけました。唇が切れ、目がつぶれました。医務室にゆき、医務室は中隊に連絡して「練兵休」三日をくれました。その時、人事係の准尉は週番士官でした。翌朝私の顔を見て笑いました。

「派手にやったもんじゃのう」

 

「ソ連軍がどこそこまで進攻している。開拓団の婦女子がひどい目にあっている」私的情報はもっとどぎつく伝えました。

三中隊がどうしてムー林まで四十五センチ榴弾砲を挽曳しなかったのか思い出せないのです。

兵器倉庫の中に約四ヶ月間書きためた「日記」はとうとう持ち出すことはできませんでした。

 

その日の夕方に「ムー林陣地」まで退却して「タコツボ」掘りを始めていました。

若い見習士宮がし(幹部候補出の)特攻隊長です。五人で一班がつくられました。 班に破甲爆雷が二個か三個わたされました。小銃は一挺もない。これで戦車をまつというのです。

「これが棺桶さ」

タコつぼに入り初年兵や補充兵に私は

「敵の戦車がきたらにげろ、戦車の前でトンボ返りをして戦車のキャタピラにのり、破甲爆雷を戦車におしつけて、右にひねると、すぐトンボ返りで戦車からはなれろ、なんて軽業師じゃああるまいし、そんな芸当ができるものか」。

小刻みにふるえて説明をした見習士官、私と同じ年位だろうが、幼く見えました。彼も私もやがては死ぬだろう、森古兵どのと私の班になった「玉城」二等兵は沖縄県の生れ、十八才といった彼もやがては死ぬ、昔小説の中で自分の棺桶をつくったインディアンがいて主人公は最後にはその棺桶で助かるのだがこの「タコツボ」ではどうなるだろうなどと私は思っていました。

 

夕方になって缶詰やミルク、乾パンが配給されました。酒が少しだが出されました。しかし太田兵長や中原ユウさんら四年兵のグループはどこから手にいれたか一升びんで末期の盃などとやけ気味に飲んでいました。

敵戦車の情報は「とてもとってもそばによりつけるどころの話じゃあない、電柱のような砲をもっている」ときかされました。

どこまで逃げられるかしらんが、恐らく駄目だろう、七、八人に一挺の9・9式歩兵銃と腰のごぼう剣だけで戦車に立ちむかうなんてこんな戦争ってあるかい。

初年兵や補充兵はタコツボで何を考えているのか声もありませんでした。古年次兵たちが少しづつ暮れゆく山の端の明るみに頬をそめていました。

やがて日も落ちる、暗がりの中で一人ひとりの顔が蒼白くそれはもう生色を失って、死人の集団のようでした。堀りあげられた赤土の山だけが何か生き生きしているようでした。

 

そのとき、トラックが止まって

「森はおらんか、森一等兵はおらんか」

とどなる声が近づいてきました。返事をすると岡村軍曹でした。

「命令だ。唯今より牡丹江に火砲受領にゆく、直ちに出発する支度はよいか」

あっという間もありませんでした。では元気でとのことばを交わしたかどうか「うまくやったな」という声を後に聞いたような気もします。

兵器掛り下士官の岡村軍曹と助手の私は、みるみる遠ざかる夕日と山の稜線ともう暗がりも見えなくなった戦友たちのいるタコツボのあたりを見ていました。敵の戦車はもうそこにきているのです。私は何もかもすぎてしまった夢を再び思い起すかのように目をつむりトラックの荷台で揺られていました。

(一九八五年八月二二日)

 

(3)

「蜘蛛の糸」という小説があります。あのカンダタのように地獄の戦場からひとり私はぬけ出しています。兵器受領という任務ではあったが、今晩か明朝にはソ連軍の戦車がムー林の陣地に現われるということは確実なのです。今から牡丹江まで行って十五センチ榴弾砲を一門受領して「苦力」(満州人の労働者のことをこうよんでいました)にひつばらせて、陣地まで帰ってこいという命令なのです。

 

我々はただ命令されたことを実行すればよい、私も岡村軍曹も汽車に乗ってあまりしゃべりませんでした。岡村軍曹は私が初年兵で入隊した時の班長です。私が入営した翌日の「式」のときの満州第四三八七部隊長、纐纈哲三大佐の訓示を中隊の庭で聞き、その後の中隊長の問いにただひとり答え「そう、その通り、森二等兵の言うとおり」という中隊長の言葉と特徴のある抑揚が、しばらく中隊の流行語になったことがあります。一選抜の上等兵はまちがいないといわれながら一期の検閲直前突然入院したこと、その病名が軍隊では「三等病」といわれていたものであったことなど田村軍曹は入隊以来の私のことはよく知っていました。それだけにことさらいまになって話すこともなかったのでした。お互いするだけのことを下士官と兵としてすればよい、私はそう思っていました。

汽車は地方の人も何人かはいましたが、ほとんど男性で「公用」の腕章をつけた兵隊や軍刀をついて腕ぐみしている将校でした。

 

命令とはいえ最前線の明日をも知れぬ陣地から一人だけ後退することに後めたい気持がありました。私の班に入ってほっと安堵したような初年兵の「玉城」の幼ない顔や補充兵の心細そうな顔が浮かんできました。ムー林から牡丹江までどの位の距離があるだろうか、汽車の中ではそんなことばかり思っていました。

牡丹江の兵器廠は野っ原にありました。もう何でも好きなものを持っていっていいぞという調子でした。私たちはその夜のうちに、点検もし、弾薬も集め、挽曵の準備の「苦力」集めに岡村軍曹は出てゆきました。

兵器廠にも何人も兵隊はいないようでした。階級章もつけてないその男に私はどんな口の利き方をしていいかわかりませんでしたので黙っていました。

拳銃が何丁も箱にあって弾丸もありました。

 

「よかったらもっていってもいいぞ」

その男は声をかけました。

「どうして撃つんだ」

そのうちの大型のを取り上げて私はききました。男はゆっくりきて弾倉をいれてくれました。引金をひくと激しい音と反動で土がはねました。

「おい無茶すんなよ」

とその男がいいました。この戦争で私が銃で弾丸を発射させたのは、あとにも、さきにもこの一発でした。(一九八五年九月三日)

 

(4)

まだ暗く、しらじらと明けていたのでしょうか、私は運搬すべき十五センチ榴弾砲の横に拳銃を胸に眠っていました。

ここは静かで、細く虫の声がしていました。しっとりと土は濡れていました。

岡村軍曹が

「おい森…ムー林陣地の大隊は全滅したそうだぞ」

大声で私を起しました。一瞬何のことか私は耳を疑いました。

「敵の戦車は今日には牡丹江までくるそうだ。明け方までには××橋を爆破するそうだ。…もう十五榴も持って帰るところがないぞ」と岡村軍曹はいいました。

それから岡村軍曹とどう行動したか思い出せません。唯、橋の爆破は撤退してくる我が軍が渡ってすることになったらしい、私は街道まで出て見ました。血だらけの兵隊もいて、軍のトラックも激しく行き交い、砂ぼこりを立て、八月の太陽がありました。

「…ムー林の四三八七部隊のものはいないか」

私は流れて入ってくるような兵隊の群に大声でたずねていました。

昼前から黄色火薬を積んだトラックが兵隊の流れと逆に橋の爆破の準備にとりかかっていました。

昼すぎになってやっと三中隊の何人かにあいました。負傷している人もいました。

「とにかく問題にならんよ、奴らがもっているのはマンドリンだ、歩きながらバラバラ射ってくるんだ、肩からぶら下げて右から左へ草でも苅るみたいだよ、俺たちのように狙ってうつのとちがうんだ、まるで機関銃さ、あれじゃあ勝ち目はないよ」

「戦車の大きいこと、動きの速いこと、タコツボなんか、飛びこえてしまうんだ、踏みつぶしてしまうんだ。タコツボなんて何の役にも立たなかったよ」

「電柱を倒したような機関砲と四方の銃眼からの機関銃で、あれでは昼間はそばにはよれないよ、夜でよかった、暗いからこそこうして逃げられた」

「陸士出の中隊長のいる二中隊は砲兵中隊の魂である四十五センチ榴弾砲とともに死のうといって、ほとんど中隊長はじめ全滅した」

「敵はあの丘からくるにちがいない。十五榴があるのだから、観測手がいないなら直接照準でもいいじゃあないか、やろう、やろう」

たとえ数時間であっても戦争した連中が言い出して、兵器廠からみんな(七、八人はいたでしょう)でひっぱり出して据えつけたのです。

四十五センチも十五センチも榴弾砲、やり方は同じだろうと岡村軍曹が指揮をとることになりました。

「照準は森がやれ」

夕方ちかくになって、遠くの山の稜線上に、戦車が砲身から現れその全体がくっきりと夕日に映えた瞬間、十五榴を発射しました。射った私たち自体、射つには射ったが弾丸はどこに飛んで行ったかわからないのです。すると何を思ったのか敵の戦車はくるりとまわれ右して稜線から姿を消しました。

「やったやった、バンザイだ」

みんなでいいました。私は岡村軍曹の号令どおり「い度」や「角度」をきめて十五センチ榴弾砲を発射させたのです。それだけでした。(一九八五年九月五日)

 

(二)八月十五日のこと

(1)

一九四五年八月十五日は「横道河子」(「下城子」は地図にありませんが「横道河子」はあります)にいました。この街(この字を使いたくなるようなところでした)のたたずまいは何となく異国風でした。家のまわりにテラスがあって、つる草を垣に這わせて、木が大きく茂って、木かげがあって芝生があり、卓といすが置いてあるという風な洋風な家が何軒もありました。

もちろん土壁の満州人の住む家もありましたが、ここでは戦争もいったんは中止になったかと思われる静けさでした。

ここはたしかに偉いさんのいるところだな。私たちは満州人のいない民家に勝手に入って、満州人の残した豚や鶏などを勝手に喰べました。私たちのように部隊からはぐれた下士官や兵隊のグループがいくつもありました。こうしたグループは自らを「敗残兵」と称して勝手に動いていたようです。古い兵隊はみんな階級章はつけていませんでした。夏でシャツにつけている階級章は自分で外したのか、戦闘中にとれたのかほとんどつけていませんでした。敬礼などほとんど省略されていました。

 

橋は爆破されて牡丹江で四三八七部隊の三中隊のものにあったのは七、八名でした。この七、八名もそれぞれに別れて、私も岡村軍曹ともはなれ、玉城という初年兵と補充兵と三人で行動していました。もう私の心の中には軍隊解体という気持ちがありました。これから先どうなるかはわからないけれど戦車やマンドリンにごぼう剣で立ちむかう気持はありませんでした。

「階級章なんか外してしまえ、戦争になって一等兵も二等兵もあるか、雑のうは空にしろ、弾丸よりも食糧だ、喰べるものさえあれば生きられる」

自分にも初年兵たちにも言い聞かせ、あれから五日間、とにかく逃げるだけ逃げようと或る時はトラックの後部にむりやりのりこんだり、火をあげているのが軍の施設なら糧秣を探しました。駐屯部隊には、私が二人の兵を連れた下士官のように階級章をつけ事情をはなして糧秣をわけてもらい「横道河子」まできたのです。

 

「横道河子」に入ったとき、駐屯している兵隊の歩き方や私を見てキチッと敬礼をするのを見て、あわてて答礼をした私はこの街には相当な偉いさんの部下がいるなと思ったのです。

すべてが止っていて落ちついているのです。

さあこれからどうする、いままでの奔流のような軍隊の動きがここで止まってしまったのです。私はその晩、軍曹の階級章を外しました。(一九八五年九月五日)

 

(2)

十四日も十五日の朝も敵の飛行機は姿を現しませんでした。ぐんと冷えこんで

「どこかで上衣など徴発せんといかんな」

など話しあっていました。

今日は何でも軍の重大発表があるらしい、そのために××中将がどうしたの、こうしたのという情報が入ってきました。何時に戦争終結という途方もない情報も流れてきました。

「すると戦争は負けたのか」

「そうなると我々は一体どうなるのだ」

「一大反撃のためここに集結させているのだ」

「ソ連の戦車は牡丹江をわたった」

その日の午後、「武装解除」の命令が出ました。これはどの「敗残兵」も「気を付け」の姿勢で聞かすような伝達ぶりで伝えられました。こういう時、さすが軍隊だなと私たちにも思わせたのでした。持っている兵器を残らずその場所に集結せよというのです。

 

「武装解除」といわれたとき戦争は終ったんだな、生きていてよかったなと三人で話しあいました。補充兵は泣いていました。

そしてムー林陣地でわずか一週間前、全滅したという四三八七部隊、三中隊のだれかれのことを思いました。まさか死んではいまい、死ぬようなヤツじゃあない、きっと、どこかで俺たちと同じように戦争は終ったんだと知らされていると思いました。

 

兵器の集結場には抜身の軍刀や銃、機関銃、手榴弾やごぼう剣などが山と積まれていました。私は帯革を解いて、ズシリと重い帯剣をその山の中腹に投げました。

「かしこくも菊の御紋章は天皇陛下のご紋だぞ、貴様それでも日本人か、軍人か」

こう言われた声がその山からはね返ってくるようでした。銃口蓋ひとつなくして逃亡して死んだ初年兵(二十才の青年)がいました。錆があるといって二十四時間正座させられた補充兵(五十代の壮年)がいました。「菊の御紋章」ということで「兵器はかしこくも天皇陛下からの貸与されたもの」ということで、どれだけの人間がいじめられ、そのために狂った人も死んだ人もいるのです。だのにこれは何か、「菊のご紋章」も「天皇陛下」もいったいどうなったんだ。うず高くゴミのように積まれた銃や剣をあとにして私は思ったのです。

「戦争が終ったということはとてつもないことが起きたということだ。私の想像もつかぬ大変なことが起きたということだ。このとてつもないことがいまもう始まっているのだ、何かよくはわからないが…」

 

軍刀をもった男が将校だろうか、狂ったようにその軍刀でそこらあたりの木を片っぱしから斬っていました。バサッバサッという音と木目のみずみずしさと刀身の輝きが夕陽にはねていました。

 

「徹底抗戦」と叫んで何人かの男たちは小銃や手榴弾をもってそのゴミの山に背を向けました。

どこそこの中隊は中隊長がつれて××まで撤退をはじめたそうだ。

××少佐が自刃したそうだ。

「ソ連の捕虜になるくらいなら満州の馬賊になろう」

「たとえ戦いに敗れたりといえども、日本帝国軍隊はある、軍規を守れ」

 

いろんな声や行動が騒然と「横道河子」にわきおこっていました。たしかに敗戦になった、戦争は終ってもまだ軍隊はありました。敬礼も命令もあったようです。しかしすでに「軍隊解体」をした私たちのような兵隊もいました。

これは終りでなくてはじまりだ、箒ではいたような秋の雲が中天高くありました。

(一九八五年九月十日)

(福岡県山田市上山田在住)

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