戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年08月03日

『空襲警報』の日々



星野ふみ子

 〝欲しがりません勝つまでは〟〝御国の為に我が身を捨てて〟といった文句が、『陸軍少年兵募集』のポスターといっしょに街のいたるところに張られていた。

少年兵とは、徴兵年齢に達しない少年を兵士にするための制度であったが、昭和十八年には、募集年齢を十四歳にまで引き下げ、戦争に駆り出し、当時の学校では、それになんの疑問もなく手を貸していた。

戦争に参加しなければ、日本男子にあらずと、大学や、専門学校の学生も勉強の道を閉ざされ、『国家総動員法』にもとづく、〝学徒出陣〟〝学徒動員〟が行われ、志願する者は、〝特攻隊要員〟として、前線基地に赴き還らぬ人となった。

家庭にいる者は、女子も挺身隊や、徴用工という形で駆り出されていった。

昭和二十年になると、一月に米軍がフィリピンのルソン島に上陸し、三月十日には、あの東京大空襲があり、死傷者十二万五千人という大被害を受け、日本各地では、毎夜〝空襲警報〟に脅かされた。

六月、七月になると、ラジオ放送が、足摺岬よりB29が通過する情報を告げるたびに、また、何れかの都市が攻撃を受けるのだと思うと、ゆっくりと眠れなかった。

毎晩、九時過ぎる頃には、〝警戒警報〟が鳴り、目的地がはずれるとホッとして十二時過ぎに仮眠が出来るが、〝空襲警報〟が鳴り響くと〝定期便〟に備えて、用意したお米で〝おむすび〟を姉と作っていた。

私の住んでいた当時の福岡市では、六月十九日の夜、十一時過ぎる頃から約二時間にわたって二二三機のB29が飛来し、焼夷弾を無差別に投下し、被害は全市におよんだ。

その日に限って、〝警戒警報〟がいつもより短かく、慌ただしく〝空襲警報〟に切りかえられたあと、空は一面、真ッ赤に染めあげられていた。

とにかく、家に居る者だけで、身を寄せ合って防空壕にいて助かったが、わずかな距離にいた人たちが、燃えつきた家で亡くなり、傷を負っていたのには驚くとともに、生きている実感は、しばらくしなかった。

父が、西日本新聞社に勤めていたので、情報は比較的早く、帰宅後、話を聞いたが、相当な火災があり、焼け死んだ人もかなりの数になり、焼夷弾の恐ろしさを知った。

その被害は、全市に及び、被災人口六万六百人、死者一、九八十人、行方不明二四四人で母校のある奈良屋小学校区をはじめ、冷泉、簀子、大名などの校区は、ほぼ全滅に近かった。

とくにひどかったのが、十五ビル(銀行)の地下にいた寿通り商店街周辺の人々の避難所だった。

シャッターが降りた地下室は、停電によって扉が開かず、生き地獄と化して、すべての尊い命を奪い、コンクリートの壁に、黒焦げの死体の重なりが焼きつき、この世のこととは思えず、戦慄を覚えた。

私の家では、すでに弟たちは、徴用や、学徒動員などで家に居ず、いま住んでいる小路の二階家では危険なので、避難のできる広場のあるところを移転先にと、話しあいやっと春吉の学校グランドのそばに適当な家をみつけていた矢先だった。

引っ越しの最中で、幸い、みんな助かったがもし、前の家の周辺にいたら、どうなっていただろうと思うと、ぞっとする想いだ。

私は、赤坂門にある日本発送電株式会社(九州電力の前身)に勤務していたが、崩壊した家屋と焼けただれた人々の姿をまのあたりに見て、その地獄図に驚がくし、街中にただよう異様な匂にむせかえり、生きた心地はしなかった。木造建ての会社は、すでに跡形もなく、焼きつくされ、煙だけがくすぶっていた。

戦地にだけでなく、国内でも、生命の保障なき、厳しい戦いの最中に、軍の命令は、次々と、生活を脅かしつづける。

いま、住んでいる家を直ちに退去し、疎開せよ。……と。

焼け跡の中での”空家探シがはじまった。

八月六日、広島では、いままでと違った生きものを全滅させる”新型爆弾が落とされたという情報が入ってきた。博多にも、そのビラがまかれたと人づてに聞いたが、九日には、同じ爆弾を長崎に使用し、都市を全滅させた。

〝すべての生物を焼失する〟この二回にもわたる原子爆弾で、被爆者は、水を求め、放射能を浴びて、焼けただれて倒れていった。

その惨状は、この世のものではなかった。

世界ではじめての核兵器のために、広島・長崎の両都市五十七万人の人口のうち、約半数の二十三万人が、その年のうちに死亡されたという。

五十年経った今も、被爆者を看護した人も、身内の人を探して歩いた人も、放射能を受けて、なお、三十万人以上の人々が、高齢化の中で、原爆の後遺症で苦しんでいることを聞くにつけ、戦後処理に対する歴代内閣の無責任さに、あらためて憤りを禁じ得ない。

 ◇ ◇ ◇

 敗戦後、世の中は、一八○度の転換をしたが、食糧の不足からくる暮らしの苦しさは、益々ひどくなるばかりで、一〇人世帯を賄うには大変な苦労がつづいた。

リュックを背に、糸島郡の前原あたりまで買い出しに姉たちといったが、知人や縁者を頼っていっても、ひょうたんカボチャ二つということもしばしばだった。

一方では、旧軍隊の高級幹部たちが、軍事隠匿物資の横流しを行い、〝大浜〟あたりの〝闇市〟では、現金さえあれば、何でも買えたが、給料生活者には高価で買えなかった。

その頃、全国的にも〝米よこせ〟〝仕事よこせ〟の闘争が拡がりをみせ、職場には労働組合が結成され、私も電気産業労働組合(電産)の一員として、産業別の力強い統一組織のなかで、他の労働者と連帯して活動するようになった。

その活動の中で、戦前、平和と民主主義を守るために、想像を絶する拷問や、迫害を受け、獄死された多くの先達者がいたことを知り、社会の矛盾についても先輩から学ぶことが多かったし、その後の私の生き方にも大きく影響したと思っている。

(版画家・新潟在住)

 

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