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更新日:15年09月29日

≪私の体験から…≫「人間の尊厳」を引き裂く戦争



≪私の体験から…≫
「人間の尊厳」を引き裂く戦争
戦後70年・平和憲法9条をまもれ

 諸 岡  昭 三 郎

 〈日本機関紙協会九州地方本部顧問〉

 

1931年(昭和6年)9月18日夜、中国奉天近郊の柳条湖で、旧日本の関東軍が、日本の南満州鉄道の幹線路を爆破し、この事件を中国軍の仕業として、東北地域を占領し、さらに1932年(昭和7年)9月には、宣戦布告なき事実上の一方的な開戦に対し、日本軍は、「五族協和主義(漢族・満州族・蒙古族・朝鮮族・大和民族)」の美名のもとに、挑発と侵略をつづけたのに「満州事変」という言葉を使い、その延長線上に1937年の「日中戦争」があり、その名称を「支那事変」という偽善的な言葉を使用しました。

当時、福岡市博多区の奈良屋尋常小学校に通学していた私は、「紀元は二千六百年あゝ一億の胸はなる…」という日本放送協会が公募した“奉祝国民歌”を毎日、耳にタコが出来るほど、歌わせられ、提ちん行列にも参加させられました。

「八紘(ハッコウ)一宇(イチウ)」〈四方(シホウ)と四隅(シグウ)=天下や全世界の意味〉のために、戦意昂揚への戦争体制への組み込みが強化されていた時代でした。

めまぐるしく変化する事態に、無謀な策を考えていた支配者のなかに、時の関東軍憲兵総司令官・東条英機首相もいました。

1941年(昭和16年)4月から、全国の「尋常小学校」の名称が「国民学校」と改め、義務教育段階から戦争遂行を意識させるため、教育内容も軍事色に色濃く変えられてきました。音楽の時間が「詩吟」に変わり、スポーツの分野でも呼称が変わり、「バスケットボール」は「篭球(ロウキュウ)」野球の審判は、「アウト」を“引け!”「セーフ」を“よし!”と気合を入れ、「サッカー」を「蹴球(シュウキュウ)」。「アコーディオン」を「手風琴(テフーキン)」と呼び、さらに「敵性語禁止令」も出され、中学・高校・大学は一斉に“敵国語=主に英語”を使用すべからず。の風潮が拡がっていきました。

また、こんなひどいことをと思っていたのは、かつての日本歌謡協会の会長をしていた「デック・ミネ」さんの芸名が気にくわないと云った軍部当局のさしがねで「三根耕一」に名前をかえろ!と脅迫されたことです。

戦時中は、主食の米・麦は配給制で、芋やかぼちゃ、大豆などが主食の代替食料で、たいへんな経験もし、「骨(ホネ)・皮(カワ)・筋(スジ)・衛(エ)・門(モン)」と揶揄(ヤユ)しながら、“あばら骨体操”でがまんと辛抱をつづけました。

すべての女性には、「パーマネントはやめましょう」の標語を配布。男性の長髪も禁止し、発見次第、憲兵から注意と罰則を受けるという仕組みまで作っていたから、驚きの至りでした。

 

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1941年(昭和16年)12月8日未明のラジオ放送(テレビはありません)は、日本軍が米国・英国に対して真珠湾に奇襲攻撃をかけ、「宣戦布告」をしたことを報道しましたが、国民の多くは、全く予期しなかったので驚愕(キョウガク)していました。

東条英機陸相の“示達”「戦陣訓」なるものは、日本国民の「行動規範」とし、「本土決(血)戦」に備えることを強要し、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」というもので、自分の意志の如何に拘らず、「赤紙」の招集令状が来れば、直ちに出征で、適齢期の若者たちは“死の恐怖”とのたたかいでした。

 

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一方、ヨーロッパでも、「日・独・伊三国同盟」が締結され、ドイツのヒトラー、イタリヤのムッソーリーニが率いる相互の軍隊が、一方的にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の口火が大きく拡大して、世界の60数カ国、1億人以上の国民が銃火を交え、殺戮(サツリク)をくり返し、6,000万人という多くの無辜(ムコ)の市民を巻き込み、尊い生命を奪った過去の歴史の反省と教訓から、平和を希求する願の結晶である「日本国憲法」の真髄を一人、一人が、自らの”生きる力“の源泉として守り抜いてきたからこそ、日本国民は、70年間、他国を侵略せず、侵略されずの世界平和のために、貢献してきたものでした。

「戦争とは、命令した者は傷つかない。命令を受けた者が傷つき、生命と、その財産を失うことです。」

 

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1944年の2月1日、戦局を有利とみた米軍は、マーシャル諸島に上陸し、2月4日には、日本軍守備隊全員を玉砕に追いつめ、つづく2月23日に、マリアナ諸島、サイパン島守備隊などの全滅によって、日本軍は、太平洋の制海権に次ぐ、制空権を失う結果となり、6月16日には、米軍B29爆撃機が初めて北九州を空襲しましたが、狙いは北九州の小倉にあった陸軍小倉造兵廠など、軍事施設・軍需工場の爆撃でしたが、すでに、その主力施設は、福岡市郊外の“春日原(現・陸自の基地)製造所”に移していました。

当時、旧制・中学修猷館の3年生だった私は、「国家総動員法」による「学徒勤労動員令」で、旧友たちと48ミリ機関砲の砲身削りと、研磨機などを駆使させられ、毎日、芋ガユでクタクタになっていました。

やがて、春日原も米軍の標的になり、分工場として大分県の光岡(テルオカ)(JR・久大線)の山奥に回廊型の穴倉を掘り、この作業に憲兵隊監視のなかで、朝鮮の人たち二千数百人が厳しい使役に耐えていました。

当時、私たち中学生や女子挺身隊の動員組は、JR九大本線の善導寺、田主丸、筑後吉井町にあるお寺や民家に分宿して毎日、光岡まで運ばれていましたが、客車は引率教師と女子に限られ、男子は貨車に放り込まれての通勤で、いまでいう“人権無視”の典型でした。

そのような毎日を繰り返していた1945年(昭和20年)の6月19日、マリアナ基地を発進したB29、223機が福岡市を猛爆し、19日深夜から20日にかけて総計1528トンの焼夷弾を米軍は、投下しました。

その被害は、全市におよびましたが、とくに被害が大きかったのは、博多部で、私が生まれ育った古門戸町から通っていた奈良屋小学校区、冷泉小学校区で、例の“博多どんたく”や“博多山笠”で賑わいをみせる中心の街筋は、殆んど全滅に近かったと姉や兄、友人、知人が証言し、那珂川(博多中州)の東部に位置する福岡部では簀子、大名小学校区がひどかった。と知人から聞きました。

福岡市全体の被害数字は、私が西日本新聞に勤務していた時の資料によると、焼失面積3.77キロ、被災戸数1万2856、被災人口6万599人、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人、米軍の損害はゼロであり、戦う武器を持たない裸の王様ならぬ日本軍の実体が判りました。

奈良屋小学校の消火にあたった同窓生から数多くの犠牲者が出たのが痛ましく、誰ということなく、故人の墓参りも兼ね、奈良屋小の同窓会を毎年6月19日4時にして、15回ほどつづいていましたが、最後は米倉徳君(戦後初の県展で天賞をとった、彫刻家)と奥村武君(博多の歴史に詳しい内科医)の三人でおわりとなりました。

いかなる理由をつけても「戦争」は、人間性の尊厳を否定し、自然を破壊し、生物を抹殺する最大の暴力です。

 

村田英雄さんも証言

また、“無法松の一生”の演歌で有名になった村田英雄(本名・梶山勇)氏は、私たちと同年代ですが、出身が浮羽郡の吉井町で、福岡空襲の当日、佐世保相浦海兵団の輸送班のトラックで博多に来ていて、「地獄絵図」を見た状況をつぎのように語っています。〈証言・福岡大空襲を語る会・1986・6・19〉

『私の人生の中で、福岡大空襲時の十五ビル(現・博多座、西銀シティビル)地階の地獄絵図ほど忘れられないものはありません。今でも、心にしこりとして残っています。

二十日の昼ごろから、博多部で一番被害の大きかった片土居町の十五ビル地階に作業班として入りました。遺体搬出作業でしたが、なんとも異様な臭いと焼死者のむごい姿に気が遠くなりかけたほどです。街を焼き払った敵のことを思うと、私はくやし涙が出て仕方ありませんでした。犠牲者のごめい福を今も祈っております。ただ、その時の記憶では「電動シャッターが開かなかったため、たくさんの市民の方がなくなった」ということでした。

当時、博多の街は足の踏み場もないほどの瓦れきの山でした。博多駅から北側は焼け野原で、玄界灘が真正面に見えていたのを覚えています。しかし、四十年以上たった今、新幹線が伸び、博多の街は大変な復興ぶりで、当時のことが夢のようです。戦争は二度としてはいけない、と心に固く誓っています。』

 

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