名簿から
森一作
同窓会名簿に「昭和二十年五月十一日、南西諸島方面にて特攻戦死(神風特別攻撃隊)」と小さくでているM君は、教室で私のすぐ前の席だったので授業中でももの言いかけたり、ひる休みには校庭の隅で帽子のひさしが熱くなるまで話しこんでいた仲だった。
キリッとした顔の小柄だが剣道は二段で、闘志がはりつめた感じながら友だち思いで談笑するときの澄んだ大きな声はいまも耳の底に残っている。九大農学部にすすみ卒業前、学徒動員で海軍予備学生となった。特攻隊員として出撃する直前、鹿屋の基地から母親にあてた最後の手紙が毎日新聞社発行の「ああ同期の桜一かえらざる青春の手記」の中に出ている―。
……幼い頃よく母の寝物語を聞いて涙を流した俺も今は何事にも心の動かない枯れた人間になってしまった。時には我ながら涙の出ぬことがうらめしい。思い切り感激したり涙を流したりし得たら、さっぱりしてよいかも知れないと思う。しかし九州人の常として一切の感情を押し殺すように教育されてきた俺はその通りに成長したが、また一面それがうらめしいような感じがする。しかも今となってもがいたところでどうにもなるものではない。二十五年間の教育の結果がかくの如くなったのである。……
……お母さん、若い盛りの妹が化粧もせず着物もきずただ家のために働いてくれるのを思うと全く頭が下がります。よいお婿さんをみつけてやって下さい……。
長男だった彼が戦死したあと遺族はどうされただろうかと先日彼の故郷をたずねたが家はあとかたもない。母親も弟も亡くなられ、やっと妹の嫁ぎ先をききだし、連絡をとったらおり返し返事がきた―
……兄が帰ってくるまではと母と弟妹で荒れ狂う戦争の中を一生懸命生き抜いてきましたが、母ももう十三回忌をむかえました。死ぬが死ぬまで兄ちゃんさえいてくれたら、兄ちゃんがいたらとこぼさない日はありませんでした……
同窓会名簿には黒いワクに入りただ一言〝戦死〟とあるだけだが、家族にとってどれだけ深い大きなしかもとりかえしのつかない悲しみだったろうか。
彼の手紙にある「今となってもがいたところでどうにもなるものでない」から、「今」とならないうちに「一切の感情を押し殺す」のではなく何より人間を大切にする教育を―これこそ五十年前に二十四歳で戦死した学友の血の遺言だとうけとめている。