「赤紙」ならぬ「白紙」での犠牲者 ― ある徴用工の五十年
藤田 賢治
私がその人、井田(仮名)さんを知ったのは十五年前、市立若松病院の一室であった。
そこは戦前からの旧い病棟で、いかにも暗く陰気な感じであった。私が椎間板ヘルニアの痛みと闘っている隣のベッドに、下半身不随の人が、毎日四〇度近い高熱に苦しんでいた。その人が井田さんであった。
なんと井田さんは、私と同じ町内で、わが家から五〇メートルと離れていないところに長年住んでいる人であった。聞けば戦後ほとんどの年月を、車椅子の生活をしているとのことであった。そんな大変な重度障害の人が、すぐ近所にいることを知らなかったことに、私は内心忸怩たる思いであった。私の行動半径がそんなに狭いわけではなかった。そこに住んで十七年、私は近所の住民要求のとりまとめをしたり、「赤旗」新聞の拡大のため、井田さんの家を訪問したこともあった。しかし井田さんの存在を知らなかった。井田さんは、ひっそりと艘とその家族の献身的な看病に支えられ、世間の目をはばかるかのように隔絶した暮らしをしていたのである。
一九四一年(昭和十六年)十月福岡県朝倉郡志波村役場の職員が送達して来た一通の通知が、井田さんの人生を決定した。
それは、七日以内に佐世保海軍工廠に出頭せよとの徴用令であった。
井田さんは高等小学校を卒業して、両親のもとで水田のほかに、たばこ、柿、菜種栽培などの農業を手伝い、そのかたわら村の青年学校で、柔剣道や軍事教練などをうけていた。そして徴用令状を「ああ、俺も一人前の男になったバイ。家んこつが気になるバッテン、お国のためじゃ」とうけとめていた。
一九三七年(昭和十二年)に中国への全面的な侵略戦争をはじめた日本帝国王義は、軍隊の大動員を進めるほかに、兵器と物資の大調達をはかるために、国家総動員法を一九三八年(昭和十三年)四月公布した。この国家総動員法にもとづき翌年の一九三九年(昭和十四年)七月に国民徴用令が施行された。さらに戦況が逼迫するにつけて、政府と軍部は全国民の根こそぎ動員をはかった。一九四四年(昭和十九年))四月の「学徒勤労令」と翌年三月の「決戦教育措置要綱」によって中学生・高等小学生以上は、すべて授業をストップし、軍需工場などに動員されることになった。
軍隊への召集令状は『赤紙』(あかがみ)であったが、徴用令状は白紙であったことから、それに準ずるものとして『白紙』(しらがみ)召集と言われた。これを拒否するものは、一年以下の懲役または千円以下の罰金に処せられることになっている。
志波村からは、ほかに二人の同級生が徴用令状を受け取っていた。太平洋戦争の開始前のこの段階では、徴用は高等小学校を出て間もなくの農村の青年や、商店などで働く店員等が主な対象であった。
井田さんら三人の青年は、出征兵士なみに、三〇人あまりの大勢の村人に見送られ、筑後川を舟でわたり、対岸の吉井の駅から汽車に乗り佐世保へ向かった。
国民服に戦闘帽巻脚絆姿の三人は「百姓しか知らん俺たちが、果たして軍艦をつくる工廠の仕事ができるじゃろうか、寮生活はどげんかなあ」と不安と緊張の面持ちをかくしきれなかった。
筑後川は青年たちの不安を知らぬげに、その日もゆったりと流れ、稲刈りの始まった両筑平野の田圃がどこまでもひろがっていた。太平洋戦争が開始される直前のこのころ、まだ田圃には男の姿も少なくなかった。井田さんたちが佐世保の海軍工廠をめざしていたころ、ニカ月後のハワイ真珠湾攻撃めざして、ひそかに連合艦隊が猛訓練と集結を始めていた。
海軍工廠は軍艦の建造、修理、艤装、武器弾薬の製造等など軍艦のあらゆる要求に応じる一大工場であった。井田さんが徴用で佐世保にやってくるニケ月まえの八月、三菱長崎造船所で建造された大型戦艦『武蔵』が、佐世保海軍工廠のドックで舵や推進機のとりつけ作業を行っていた。佐世保海軍工廠には、海軍の軍人・軍属・工員・徴用工などが最盛時の一九四五年(昭和二〇年)には、総勢約五万六千人が働いていた。
井田さんは他の二人とは別々になり、鍛造職場に配置された。
宿舎の早岐の寮から工廠まで往復二時間以上もかかった。この寮には六五〇人が収容されていた。大半が徴兵検査まえの青年であったが、なかには中年の人もいた。寮の食事は大豆飯に一汁一菜で、この当時の寮生活はどこも貧しいものであった。
井田さんが工廠に入所して間もなく太平洋戦争がはじまり、毎日のように日本軍の「嚇々たる戦果」が伝えられていた。井田さんは「お国ために」と必死で仕事を覚え、一年目には早くも後輩を指導する責任を持たされるようになった。
鍛造はエア、スチームハンマーなどの大型鍛造機で、軍艦の主要箇所に使う鉄を過熱し鍛え、必要な形をつくり、靱性を与える仕事で技術と体力が要求された。熱と湿気、コークスガスと鉄粉まじりの濁った空気のなかでの昼夜二交替作業であった。ほとんど毎日残業が続いた。通勤と連日の長時間作業で疲労は極限に達していた。とくに夜勤のときは昼間寮では寝られず疲れが倍増した。
入所から三年たった一九四四年(昭和十九年)の秋のある日、井田さんは工廠の風呂に入ってゆっくり体をのばし、浴槽に背中をあてたところ、こつんと音がした。おかしなあと思ってもう一度やってみると、やはり背中からなにか突起しており、それが当たっているようであった。それからまもなくして、海軍病院で診察してもらったところ、結核性の胸椎カリエスと診断された。すぐに徴用解除となり帰郷を命じられた。
井田さんに思いあたる節があった。半年前のツベルクリン検査のさいに陽転しており、その前後から毎日午後になると微熱が続いていた。また、この前の休日に針尾の小学校で懸垂をして、砂場に飛び降りたとき背中に激痛が走った。
「これは、おおごとになった。結核性ならば家に帰っても農業も出来んし、近所からも疎まれるし、両親に迷惑をかける」「ツベルクリンが陽転したとき、一時残業が免除されたが、あのとき精密検査をしてくれていたらなあ。仕事がとてもやないけど、きつかった。寮の飯も栄養なんてことは考慮に入っていないようなもんだった」と家から姉が迎えにくるまでの三日間、寮でしょんぼりと、もの思いにくれ輾転反則寝られない夜が続いた。そのための憔悴も手伝い、井田さんをみた姉はあまりのやつれように、驚きその場に座りこんでしまった。
戦前と戦後すぐの日本では結核は国民病といわれており、とくに、苛酷な労働の現場での罹病率は高かった。工場結核といわれるくらいであった。一般の工場より、さらに厳しい労働が要求された海軍工廠の徴用工の井田さんが、結核性の胸椎カリエスになったのは、ひとつの帰結といえるのではないだろうか。
三年前は出征兵士なみに大勢の村人に見送られ、晴れがましい気持ちで、佐世保に向かったのにと思い、久留米で九大線に乗り換え、列車が故郷に近づくにしたがって井田さんは泣けてしかたがなかった。両筑平野では、三年前と同じように、稲刈りがはじまっていたが、田圃には、男の姿はほとんど見受けなかった。稲刈りをしているのは女と、大勢の小学校高学年の子供たちであった。
井田さんは「戦局ますます苛烈になって行きつつあるのに、俺は家でぶらぶらしていていいんだろか、隣近所の人は、ええ若いもんが兵隊にも行かんで、なにをしよるんかと噂しているのではないか」と鬱々たる思いで自宅で横臥していた。
そんな井田さんにも、一九四五年(昭和二〇年)正月徴兵検査がやってきた。その後四月になって召集令状がきた。今度は『白紙』でなく『赤紙』であった。しかしなんで俺のように病気で寝ている者までもと怪訝に思いつつ、指定された久留米の聯隊まで母親に付き添われてやっとたどり着いた。軍服を着せられ、次の日の身体検査のとき軍医が背中をさわって「あ、これは使いものにならん」と一言いった。そして、やはり即日除隊となった。この頃から歩行困難が始まった。あとでわかったことであるが、腰椎カリエスを併発したようであった。
やがて終戦になったが、井田さんは「やれやれやっと戦争が終わったか。しかし俺はこれから先どうなるのだろうか」と複雑な思いでいっぱいであった。
志波村にも多くの人が遺骨となって帰って来た。その数は一二〇名近くにものぼった。また一方次々に復員してくる人達がおり、村は活気づいてきた。そのなかで、井田さんは「兵隊にとられたわけではない。しかし、みんなと同じように元気で働くことも出来ん。徴用という中途半端な形で戦争にかり出され、復員した同じ世代の若者のように、軍隊の話をするわけでもない。傷痍軍人でもない。一生治らない病気を背負って、どうやって生きて行くか」と思い悩んだ。それでも体調のよいときは、農業の手伝いをした。人望があつく青年団や農協の役員にも推された。しかし、やがて車椅子でしか行動できなくなってしまった。
その後井田さん一家は田畑を処分して、若松の長男をたよってやってきた。長男は少ない田畑で農業をやっても見通しは立てられぬと、早くから北九州に出て工場で働いていた。長男一家の住む社宅に両親と不自由な体の弟が同居することになった。長男の嫁のミヤ子さんは義弟を不憫に思い、一生懸命看病した。そのうち深町の山の上に家を建て、井田さんのために特別の部屋をつくってくれた。
爾来四〇年、兄の家の世話になりながら、井田さんは、入退院の繰り返しで、車椅子での暮らしを続けている。その間両親と長男がなくなり、姪が結婚し子供ももうけ、その子供たちも成人している。しかし井田さんの状態は変わらないままである。
私は井田さんのような戦争の犠牲者が何の補償もなく、苦しんでいるが、救済の方法はないかと、かねてから小沢衆議院議員に話をしていた。国会で戦傷病者戦没者遺族等援護法という法律の改正案が審議される際に、小沢さんは井田さんのことを例にあげて政府に迫って見ようということになった。
私は小沢現地事務所とともに、井田さんのことを本格的に調査をはじめた。一方、小沢さんは厚生省援護局との交渉をくりかえし行った。焦点は当時の軍医などからの証明がとれ難いが、その場合これをどうするかということであった。そして、一九八一年(昭和五六年)四月九日の衆議院社会労働委員会で、日本共産党を代表して小沢議員は井田さんの実例を詳しくあげながら、戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正案で、戦争中の国の命令で動員されながら、被害をうけた徴用工などを援護の対象にするためには、具体的にどのような手続きが必要かを詳しく質問した。
その結果、厚生省は「工廠に入る前は元気であったが、その後カリエスになって、現在の病状はどうかということなどをできるだけ資料を集めていただき、三五年もたっているので事実関係の資料がなかなか見つからないということで、困っている人もできるだけ認定したい」という答弁をした。
それから、まず工廠時代の証明者をさがしたが、これが全く見当がつかない。しかし井田さんが一通の徴用令状で郷里をあとにするまで、いたって元気であったことを証明する人が出てきた。それは当時の志波村の近所の人で、井田さんと今でも文通している人であった。さらに、現在の病状を国の医療機関である国立小倉病院に証明してもらうべく、井田さんを連れていった。その他必要な書類をあつめ、厚生省に提出した。そして、ついに一九八二年(昭和五七年)三月厚生省から、援護決定の通知と一時金と年金の支給の知らせがあった。やっと井田さんが国による援護の対象になったのである。発病以来三八年の年月が経過している。
思えば、たまたま、私が井田さんのことを知り、法律改正の審議が行われる国会の委員会に小沢議員がいて、その積極的な論議の対象になったのである。ほかにも救済されるべき人が多数いると考えられる。問題は国が真剣になって、戦後補償をやろうとしていないことである。国の援護や救済の諸法律は、殆どが申請主義の立場である。本人が、直接行政機関に申請しない限り、援護や救済の対象であっても取り上げられないのである。井田さんは「戦後まもなくカリエスがだんだん進行しているとき、結核予防法の存在を知らなかった。田舎のことだし誰も教えてくれなかった。もしあのとき必要な措置をとっていたら、こんなにならなかったのではないだろうか」と後々までも悔やんでいた。行政は申請してくれば、それから検討しようというわけである。国家の命令で動員され、犠牲になりながら、その補償請求は本人が申請する以外にないし、挙証責任は本人にある。挙証すなわち証拠・証明集めが不可能な人はどうするのか。
戦争犠牲者のうち、国民徴用令による者が援護の対象範囲に拡大されたのは、小沢衆議院議員が井田さんのことをとりあげて審議に参加し、法改正された一九八一年(昭和五六年)四月以降である。学徒動員も、朝鮮人強制連行も、すべて国民総動員法と、それを実行するための天皇の命令である勅令によるものである。従軍慰安婦は根拠法規さえはっきりしないヤミの人狩りであったといわれている。それだけに罪が深く陰湿である。しかるに政府は、朝鮮人や従軍慰安婦の人達への国家補償をやろうとしない。
戦後五〇年というが、井田さんにとってこの五〇年は、下半身マヒと、さまざまな余病との闘いであった。その井田さんを献身的に看病してきた艘のミヤ子さんにとっても、重い年月であった。そして長年の看病に疲れ果て、ついにこの一年あまり肺気腫のため入院したままである。たとえ元気であっても、すでに七三才のミヤ子さんにこれ以上の看病は無理であろう。別々の病院で呼吸困難、歩行困難と闘っている。そしてお互いを思い合い気遣い励ましあっている。
井田さんは、腰椎がやられているので、下半身はまったくマヒしたままであり、背もたれがない椅子に腰掛けると後ろにひっくりかえる。小便はずっと管からである。問題は大便である。自宅の水洗トイレは水タンクが背もたれ代わりになるので、自己排泄ができるが、病院などでのいわゆる和式のトイレでは、まったく用を足すことができない。腰掛け式の洋式でも、水タンクは集中式で、個々にはついてない。したがって背もたれ的なものがない。井田さんはベッド上で、おむつのまま排便するしか方法がないのである。これがいかに精神的に苦痛なのかは、経験したことがない者には想像がつかない。毎日排便があるのが普通である。しかし、井田さんは意図的に週二回の排便と決めている。そうやって、少しでも看護婦さんの負担を軽減し、病室の療友たちに不快な思いを少なくしょうと配慮している。
井田さんの病状は、現在入院中の病院での治療で安定し、食事も十分とれるようになった。したがって、かつての痩せ衰えた姿でなく、顔つやもよく元気そうである。上半身は五〇年の車椅子生活のなかで、鍛えられ腕のカコブはボディービルをやっている人のように、こんもりと盛り上がっている。そして車椅子のひじ掛けで両手を支え、その両手だけで自分の体の全重量をもちあげる運動〝逆懸垂〟ともいうべき動作を七〇回も休みなくやることができるそうである。胸囲は九七センチもある。私は井田さんと腕相撲を試みたが、まったく問題にならなかった。この悲しいまでの上半身の発達に、井田さんの生への並々ならぬ意欲を感じ取ることができる。それは同時にこの五〇年、国家が井田さんにあたえた苦痛の残酷さを改めて考えさせられずにはおれない。井田さんには戦後五〇年の区切りはなんの意味もない。あるのは毎日の生きて行く闘いである。
井田さんは「いまさら悔やんでもどうしょうもない。その日その日を生き抜いていくだけ。私をずっと看病してくれた艘の苦労を思うとき、この命は大切にしなければならないと考えている」と淡々と話していた。
井田さんの生まれ故郷の杷木町志波は、古処山系の山々からのなだらなかな丘陵地帯と、筑後川にはさまれた静かなたたずまいの農村である。特産の富有柿が秋には燃えるような色でたわわに実るであろう。そのまま手に掬って飲めそうな疎水の水、落ち着いた家並みなどは、十六才の純朴な青年が、徴用令で故郷をあとにしたときのままの原風景ではないのだろうか。この五〇年の苦闘のなかでも、井田さんの純な心は変わっていない。七〇才にもなれば誰しも未来への希望は摩耗するものであるが、井田さんにはそれを感じさせないものがある。それは、半世紀にわたる闘病生活のなかでの、さまざまな葛藤をくぐりぬけてきた者がもつ強靱さと、さわやかさではないだろうか。
一九九五年八月一五日
(北九州市若松区在住)