あの戦争さえなければ…
野瀬 秀洋
私は、戦後70年を迎える今年、72歳となる。戦争を体験することなく、平和の時代を生きてきた、最初の年代層に属するのだろう。
今の私は、38年間の公務員生活を終え、退職後も、時折、市役所の労組のお手伝いをしに、労組書記局に詰め、午後は、自分の”仕事“である、憲法・平和運動をする。家に帰れば、町内会長の仕事が待っており、畑作業もする。妻と二人で暮らしており、1男1女の子どもたちは、それぞれ家庭を構え、孫は全部で5人いる。体調は、老人性の、腰や、血圧の支障はあるが、深刻なものでもない。
こうして、眺めると、私は幸せな人生を歩いていると自分でも思う。しかし、それでも“あの戦争さえなければ・・”と思うときがある。
私は、昭和18年9月9日に旧八幡市藤田に生まれた。母は、翌年12月に、疫痢か赤痢か、伝染病で死ぬ。31歳の若さだ。父は出征中で、看病に来ていた父の弟の妻も同時期に伝染病で一緒に死んでいる。姉の初節句なのだろう。壁には、戴いたお祝いの羽子板が並べてある。
戦時下の、衛生状況、食糧状況の劣化の中での死である。
親族が集まり、4歳の姉は母の実家・糸島へ、1歳4月の私は熊本県玉名市にある父の実家に、それぞれ引き取られる。こうして、野瀬家は”解散“した。
原風景は菊池川河口の堤防道
私の脳裏にある、3~4歳ごろの思い出の風景は、熊本県玉名市大浜、菊池川河口部の堤防風景である。夕陽が有明の海に沈もうとしている。夕暮れの堤防道を、祖母に連れられた私が、とぼとぼと歩いている。すると、向こうから、父が(父は、終戦後,病気療養しており、熊本への復員は遅れた。)大工道具を自転車に積んで、帰ってくるのに出会う。父は、祖母を激しく叱る。わたしは、後ろを振り返る。夕陽は海に沈み、ますます薄暗く、一層わびしさが増す。
この風景は、繰り返し、私の脳裏に去来する。祖母は、私を連れて、近くに住む自分の娘の嫁ぎ先を訪ねて、私に食事をあたえる。私が、実家でいじめにあっていたのだろうか?又は,高齢の祖母の被害意識のせいなのか、真相は分からない。いずれにせよ、祖母は、私の守護神だったのだ。
新しい家族で再出発
私が小学校に上がる前に、父は再婚した。相手は、戦争未亡人の人で、熊本の人。八幡市の市立病院近くで、父は建築業をはじめた。父、義母、義兄(義母の連れ子)それと私の、新しい家族で再出発した。やがて、糸島で病気し、やっと回復していた姉も合流した。しかし、姉の病気は再発し、市立八幡病院で死亡。15歳の短い生涯だった。
私といえば、八幡空襲で、焼け野原となった、草ぼうぼうの、家の周囲の土地は、私の格好の遊びの場所で、元気いっぱい走りまわる少年の日々を過ごしていた。私は、大学までは、あまり苦労はしていない。父は、建築業をしながらも、1年の半分は、結核の病気で、療養所生活を送っていた。門司の松寿園、福岡市の生の松原療養所など、何度も、見舞いに行ったものである。その後、家業の建築業も倒産し、家屋敷が抵当で取られ、家族は、借家生活になる。そして、父の死を迎える。
幸い、北九州市役所の採用試験に合格していたので、私は、北九州市に帰り、父の死にも臨めた。父は58歳で死亡。
あの戦争さえなければ・・
私は、27歳で、市役所水道局で知り合った女性と結婚したが、それまでは、血縁関係で言えば、“たった一人”となった。
あの戦争さえなければ、母や姉も、父も、病気で死ぬ確率は薄くなり、もっと充実した人生を送れたに違いない。私との交流も豊かになり、私の人生も大きく変わった可能性がある。(私の人生の大半を一緒に過ごした、義母や義兄に不満があるわけではなく、逆に、大いに感謝している。)
最近の、戦争法案を許さない運動に参加するのも、私の親族への思いが重なるからなのだろう。
空襲や戦闘などの、直接の戦争体験はないが、親族の死で、戦争への憎しみはつのる。安倍政権の推し進める「戦争できる国つくり」には、徹底して反対する。これこそが、母や姉や、父への供養でもある