壮大なドラマに 〝直接手を触れるものとして〟
伊藤好信
今年のことである。
春の陽気が心地好いある日、訪れた友人は「知らなかったよ。伊藤君。君が坊主とは!」といって問いかけてきた。
「では証拠を見せよう」と、私は仏壇の引き出から古びた包紙を取り出して彼に手渡した。
中味は「度牒」である。度牒とは、僧尼であることの証明書である。
「満州開教区、長春寺住職・伊藤芝信徒弟法名 好信。僧籍二登録ス。
昭和十五年四月九日 浄土宗務所」
度牒冥加料と僧籍登録料で、一金五円也と領収されている。
僧籍に身を置く私が何故その道を選ばなかったのか?
浄土宗の開祖・法然が残した「一枚起請文」のなかに「唯往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申してうたがいなく。往生するぞと思い取りて申す外には別の子細候わず。云々」という件がある。
これにはついていけないと思った。
「佳木斯の聖」という本がある(田中文雄著、三江書院)
その八○頁のところに「―長春寺には好信という一人息子さんがいた。中学生になったばかりのようで―」「長春寺の住職、伊藤芝信老師は大連市老虎灘というところに観音寺を創建し、かたわら満鉄の若い社員に柔道を教え、本堂を道場にされたほどの猛僧であった。その夫人は、むかし伊藤博文の愛人として艶名を轟かせた絶世の美人であったという」との一文がある。
その夫人とは、私の母のことであるが、事実とは少し異なるようである。
昭和三八年四月四日、享年七十一才。母は宗像市土穴で私と妻にみとられながら身罷かった。
父はそれよりも早く、昭和十七年十二月十七日、新京市長春寺で逝去した。五十七才。私の在所は岐阜県郡上八幡である。旧東京市で生まれた。
旧満州国新京特別市で幼時から中学まで。奉天市にあった満洲医科大学に在学中、終戦を迎えた。
またこういうこともあった。
昭和十八年に、私個人で海軍に飛行機を二機献納した。いわゆる「ゼロ戦」である。
新京市にあった海軍武官府に現金二十万円を持参して訪れた。そのとき田中新吉(大連商業時代父の教え子、広島県宮島町)氏を同伴した。
受付に出てきたのは若い少尉であったが、封筒の中味の重さにビックリ仰天、奥の部屋に駆け込んだ。
阿堵はたして神物より霊なり。
鄭重に応接室に案内された。出てきたのは金モールをつけた日本海軍少佐某である。
「伊藤君。君の愛国精神に感謝する。この金額であれば、飛行機を献納した方がよい」話はきまった。
献納式は翌十九年、新京市の公会堂で行われた。同時に、数多くの企業・団体も戦争協力(献金)の労に対して顕彰を受けた。
しかし、なんといっても当日の花形は「愛国の学徒」である私であった。
第丁第二伊藤号と命名(飛行機のナンバーは記憶していない)され、大きく引きのばした額入りの写真はもらったが、実物は見ないままである。
「ほんとうに飛行機はあったのだろうか」いまでも疑問に思っている。
ちなみに、表彰状には「海軍大臣・米内光政」とあった。
「まあ、いいや」
打ち上げは盛大であった。一流ではないが料亭一楽」(奈良安蔵)には、戦時中にもかかわらず五十人を越える人々が顔を並べた。
その中には、伊木貞雄(広島市、宗像市土穴の森田徳氏の知人)や力丸伊三太(故人、宗像郡玄海町上八)の両氏もいた。
なんで、そんな大金があったのか。それは別の機会に述べることにする。
ついでに言わして貰えば、戦後五十年の間に、私は職を十一回転々とした。
そのうちの九回は”特別の考えをもっている”ということを理由にして追放された。
また、別の思い出としては、終戦後「戦争協力者、侵略戦争の推進者」として、八路軍(中国共産党軍、のちに中国人民解放軍と改称)に追われ続けたことなど、いえばきりがない。
いろいろあったとしても、壮大なドラマ=新しい日本の歴史をつくる“という大事業に直接!手を触れる生きざまを是とするものである。
一九九五年盛夏
「住木斯の聖」の著者
田中文雄氏は浄土宗一光寺(福岡市東区箱崎)の住職であったが、昭和六十二年四月十三日に逝去された。現住職は田中光悠氏である。
(福岡県宗像市土穴在住)