戦争体験者の八月十五日
諌山博
五十年前の八月十五日を、私は沖縄県の宮古島でむかえました。学徒出陣から三年近くたったころで、陸軍主計少尉になっていました。
戦時中、私は自分の参加している戦争が他国への侵略であることに気づきませんでした。戦争は人類の歴史の必然だと信じ、戦争を推進するとか阻止するという発想をまったくもっていませんでした。戦争を疑うことを知らないまま、三年間の軍隊生活を過ごしたのです。
あのひどい戦争を疑わなかったというのは、いま思うとまったくうかつな話です。だが、私は自分個人の責任ではなかったと思っています。私だけのことではなかったからです。戦争が終わったとき、私の同期の弁護士である東中光雄は海軍中尉で、特攻隊員を戦地に送り出す任務についていました。私の後輩弁護士の松本善明は海軍兵学校の生徒、同じく柴田睦夫は陸軍幼年学校の生徒のときに、戦争が終わったといっています。三人ともその後日本共産党の国会議員になりましたが、戦前は職業軍人の道を歩いていたのです。国会で侵略戦争追求の論陣をはっている吉岡吉典は、あの戦争で勝つか敗けるかには関心をもっていたが、侵略かどうかにはまったく思いを致さなかったと書いています。
日本共産党の不破哲三はどうだったのか。彼はしばしば、「戦争が終わったとき、私は中学生で、軍国少年でした」と語っています。しかし、不破哲三より三才年長の実兄である上田耕一郎は違っていました。上田は旧制一高の生徒のとき敗戦になっていますが、学内に自由主義の気風が残っており、社会科学研究会がつくられていたといっています。先輩の井手洋が「死ぬ前にどうしても『資本論を読んでおきたい」と決意し、「資本論」第一巻を読破したのち出征したというエピソードを紹介し、上田自身はあの戦争に明確な批判をもっていたと語っています。
私は国会議員として一緒に活動してきた同僚たちのことをのべました。すべてに共通しているのは、戦争末期に青年時代をすごしたことです。私の学生のころは、科学的社会主義の本は完全に姿を消しており、岩波文庫の既刊目録には、「共産党宣言」や「国家と革命」に「絶版」の標記がつけられていました。あのころ私が読んだのはせいぜい三木清、羽仁五郎、河合栄次郎までで、世界と日本を科学的に分析した著書や論文は、その存在さえ知りませんでした。「きけわだつみの声」におさめられた戦没学生の手記をみると、ほとんどの学徒兵があの戦争を疑うことを知らずに死んでいます。一高の生徒だった上田耕一郎が戦争に批判的だったのは、例外中の例外だったといえましょう。
しかし、私たちよりひとまわり古い世代の人たちは違っていました。私と一緒に国会で仕事をしてきた先輩、たとえば宮本顕治、河田賢治、谷口善太郎、紺野与次郎、瀬長亀次郎、塚田大願、春日正一、須藤五郎、田代文久、青柳盛雄、林百郎、米原いたる、津川武一、星野力は、天皇制と侵略戦争に反対してたたかい、「非国民」「売国奴」として治安維持法によって弾圧されています。
同じ日本共産党の国会議員でありながら、侵略戦争に対する対処の仕方が、どうしてこれほど異なっていたのか。私には各人の育った時代の相違としか思われません。自由と民主主義が完全に抑圧された一九四〇年代に青年時代をむかえた私たちは、自由に思考することも、現実を科学的に分析することも許されなくなっていました。この点が、一九二〇年、三〇年代に青年期をすごした先輩たちと、根本的に違っていたのです。
五十年前の八・十五は、私たちの世代のものにとって、新しい人生への出発点でした。あの日を境に、一切の非科学的呪縛から解き放たれ、すべてを自分の頭で考えることを学びました。私にとっては、失われた理性の回復の日でした。
一九四五年十二月に復員してきた私は、翌年四月九州大学哲学科に入学し、はじめてマルクス、エンゲルス、レーニンを知りました。クロポトキンの「青年に訴う」をよんで感激したのもそのころでした。その私が日本共産党に入党し、自由法曹団の弁護士、日本共産党の国会議員になったのは、当然の道すじだったのであります。
七十三年の人生をふり返って思うことは、どんなことがあっても自由と民主主義を守りぬこうということです。侵略戦争のなかに身を置きながら侵略に気づくことのできなかった私の、後世にたいする心からなる伝言です。
(弁護士)