平和への思い・伝えたいこと
年金者組合八幡西支部
河内道治
昨年、庭の皇帝ダリヤがきれいな花を咲かせ、写真にもおさめ美しい。今年も咲くのが楽しみである。小さな農園に植えたキュウリやトマトが豊作で、毎日新鮮なものを口にしている。
家庭経済は十分ではないが、花植え、野菜作り、グランドゴルフ、散歩、山登り、合唱などを楽しむことができるのも、戦後七〇年戦争のない平和憲法の下で暮らしているからだろう。
安倍政権提案の安保法に憲法学者が違憲を唱え、国民の過半数をこえる人が反対の意思を表示している。若い人や学生が反対の声を上げていることは当然であり頼もしい。
自衛隊が海外で戦争のできる国、集団的自衛権を発動することは日本が戦争にまき込まれ、多くの犠牲者がでることになる。
戦中戦後を経験した一人として深い憤りを感じる。
一九三七年(昭和十二年)に生まれ、大戦中の一九四三年に国民学校(現在の小学校)に入学、終戦は三年生だった。
東郷小学校は現在の宗像市田熊にあり日の里団地は山地だった。東郷町には旧制宗像中学と女学校があったが、女学校は戦後の学制改革で宗像高に統合された。
昭和十九年になると食糧事情が悪くなり、米の配給制、副食物と共に食糧難となり、各家庭で畑作りをして唐いもや野菜を作ることになった。戦況も激しくなり、沖縄に米軍が上陸後は国内に連日のようB29による爆撃が始まった。裏庭に掘った防空壕に入る日が多くなった。学校には防空頭巾の携帯は義務であった。
母親と共に松やにを取りに近くの山に行き、飛行機や軍艦に使われると云われた。
昭和二十三年の春まで住んでいた教職員住宅は小学校の近くにあった。この住宅の一つに中学校への派遣軍人の大尉がいて、何かと緊張感があったがよく遊びに行き、可愛がられた。隣家の図画の先生宅には同級生がいたのでお邪魔することが多かった。
最近読んだ本の中に、この図画の先生が登場してくるので大変印象的で、改めて当時のことが思い出された。題名は「青い日々」、作者は平和委員会の堤康弘さんで自伝的小説であり、教師、友人とともに戦時中の歴史的背景の中で生きざまを描いた大変意味深い感動的な作品である。
堤さんより一廻り年下だが、戦中戦後を生きたものとして、後世に語り告ぐべきことが多くあることを共通の土台にできる作品である。
敗戦が色濃くなり、小学校や村の集会所にも軍隊が常駐し、兵隊の炊飯、味噌汁作りの作業状況を目の前にした。
三年生になると竹槍訓練が日課となり、少年までが軍事訓練をすることになった。
中学生の兄は連日、砲台陣地構築に玄海灘に面した山に動員されていた。米軍は沖縄の次に志布志湾そして玄界灘の福間海岸に上陸する作戦予定であったための備えの陣地造りであった。
福岡市と八幡の大空襲は人命と建物に大きな被害をもたらした。二つの空襲とも空が眞赤になったのを見た。B29の編隊が大手を振って飛んでいた。
八月十五日は暑い日で聞こえにくいラジオによる玉音放送であった。「戦争に負けた」ことがわかり、聞いていた大人たちは黙って下を向いて声を出す人はいなかった。
戦後の日常生活はひどかった。米がないため着物と交換の為農家へ行き、満員の汽車に乗って買い出しに、米の代わりの唐いも作りに精を出した。弁当に米が入るのは六年生の終わり頃だった。学校給食の始まりはこの頃で脱脂粉乳を湯で溶いたものだった。
二十三年四月に父の転勤で母の里である門司に移住した。荷物を積んだトラックに乗り三号線を通ったが途中の八幡の街はガレキがそのまゝで、門司の街も疎開と空襲によるガレキの街になっていた。
引揚船興安丸が外地からの邦人引揚げのため門司港と中国、朝鮮等を往来した。「関門海峡を通る興安丸を見るたびにこんなにも多くの人が外地に行っていたのか」と驚いていた。
二十五年に始まった朝鮮戦争で門司港の岸壁は米軍の戦車・トラック・帰ってくる戦死者の白棺で占有されていた。
中学校三年の担任の先生が与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」を解説した授業は頭にこびりついている。
七十年間守り続けた平和憲法は守り続けなければならない。戦中戦後を経験したことを少しでも次の世代に伝えることが我々の責任であろう。