体験者が語る言葉の遺産
PN:サボテンの花 北九州市八幡西区 八幡西民主商工会
「体験者が語る言葉の遺産」
広島と長崎の原爆投下の間の8月8日に八幡大空襲がありました。戦争は二度としてはいけない。これは人災だということを広めるために「八幡大空襲」について語る体験者から聞いたこと。
「あの日、八幡で何が起こったか」
1回目、昭和19年6月15日~16日
小倉陸軍造幣廠、八幡製鉄所などの軍需高校が多い北九州は、日本国内で最初の空襲地となりました。家の庭などに掘った防空壕でみな毛布をかぶり、皿倉山、若松からのサーチライトが何本も交差する中、敵機編隊が飛行。若松高須に敵機墜落、米軍の記録には7機、55人を失ったとある。
2回目、昭和19年8月20日~21日
敵機が頭上に来ると、日本機が現れ1対1の空中戦が続き、空中分解してキラキラと落下する。黒崎の三菱化成のタール工場から黒煙が上がりました。折尾上空でも空中戦があり、敵機に体当たりし、日本機は折尾大膳に、敵2機は則松と榊姫神社付近に墜落しました。小倉、中原海岸では敵兵4名が落下傘で降下。
3回目、昭和20年8月8日
8月7日の朝、朝日新聞に「広島に新型爆弾 70年草木も生えぬ」とあり。
次の8日朝、頭上に敵機編隊焼夷弾が碁盤の目のように整然と降下中、場所は鞘ヶ谷。午後3時に空は真っ黒に、槻田にも灰と焼け殻が降り積もりました。
水槽の中に茹った死体、電柱につながれたまま死んだ馬の尻の肉が切り取られていた話、紅い腕章の兵隊さんも死んでいた話、死体運びで置き場がなくなり、重ねたら下敷きの「死体」が生き返った話など。
夜になっても、熱気に開け放したガラス戸、灯火管制で黒布で電球をかこっている室の軒下へ、茶色の人を焼く煙がもくもくと言えの中に、次の煙に押されて家の中に充満、庭も煙でいっぱい、その匂いの強烈さ。学校やお寺に集めた死体を軍隊がトラックに乗せて、八王子の火葬場横に積み上げて焼く煙。三晩続きました。不思議に昼間は来ませんでした。
(了)
2021年1月22日、核兵器禁止条約が発効し、核兵器の禁止が世界のルールとなりました。2024年12月10日、原爆被害者の全国組織、日本被団協がノルウェー・オスロでノーベル平和賞を受賞しました。代表委員の田中煕巳さんは「核兵器が二度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。」と述べました。
戦後80年どう考えるか
日本が今やるべきは核兵器の「傘」に頼るのではなく、世界唯一の被爆国として、核兵器禁止条約に署名・批准し参加することです。「平和」からは生まれるものは多くありますが、「戦争」からは失うものばかりです。自国の事のみならず、他国への思いやりを大事にし、話し合いによる外交で解決してこそ本当の平和への道。
「これからも世界が平和であってほしい」そう心から想う。