北九州で製造されていた「毒ガス弾」
伊藤 絹江(50歳) 福岡市早良区 福岡県民主医療機関連合会
北九州で製造されていた国際条約違反の「毒ガス弾」
原爆投下の目標地点が北九州市小倉であったことは皆さん、ご存知でしょうか?
広島に8月6日、8月9日に小倉上空を旋回したB29は煙や天候等で視界が悪かったため、小倉に原爆投下することを諦め、長崎に原爆を投下しました。なぜ、小倉が原爆投下の目標地点となったか・・・当時、小倉は「小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)」と呼ばれ、兵器を大量に製造し、最盛期には学徒動員(10歳代の生徒たち)も含め4万人が働いていました。西日本最大級の兵器工場は大手町一帯に広がり、大手町病院付近にも戦跡があります。
さて、2022年に新設された「北九州市平和のまちミュージアム」(平和資料館)では「小倉陸軍造兵廠」や「八幡大空襲」については説明しています。しかし、広島県の大久野島で製造されていた毒ガスを兵器に充填(毒ガスを兵器に詰める作業のこと)していた北九州小倉南区の陸上自衛隊曽根訓練場の敷地内にある「毒ガス弾を製造していた工場」については一切触れていません。
「ここで毒ガス弾を作りよるということは一切口外しちゃいけん」・・・国際条約で使用が禁止されていた「毒ガス弾」。その存在は長く伏せられ、資料はほとんど残っていません。日本は国際法違反と知りながら、毒ガス兵器で戦果が上がるとして、主に日中戦争で使用しました。大久野島では、ルイサイトやイペリット等の猛毒の毒ガスが製造されていたものの、「毒ガス弾」を製造することには限界がありました。そこで、大久野島で製造された「毒ガス」を船などで曽根に移送し、兵器を製造していた北九州で毒ガスを兵器に充填するための「毒ガス工場」が作られました。作業に従事していた作業員たちは、そこで見聞きしたことを家族にすら口外することは許されませんでした。毒ガスが漏れる事故も起きていたと言われています。
日本軍は終戦時に証拠隠滅のため、「毒ガス弾」を中国各地・海洋等に投棄し、九州でも苅田港に「毒ガス弾」を廃棄し、3000発が回収されています。中国では今でも地中から出てきた毒ガス弾等による被害は続いていますし、日本国内でも時折ニュース報道されます。今なお世界で続く戦争をみる時、対岸の火事として捉えるのではなく、かつて日本がアジアに対して行った加害の歴史にも目を向ける必要があります。こうした戦争遺跡の存在や保存にも関心を向けたいものです。
<参考動画・参考文献>
「加害の歴史」北九州市の”毒ガス工場” 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
終戦75年特別企画 封印された“毒ガス終戦75年特別企画 封印された“毒ガス戦”全真相ス戦”全真相
伊藤 慎二(西南学院大学博物館研究紀要 第12号 pp.19-65. 2024年3月),陸軍毒ガス兵器工場曽根製造所遺跡の現存遺構とその意義 ―国内最重要級の戦争遺跡―