更新日:25年07月30日

原爆悲し、川底に眠る魂



PN:おばちゃん(64歳) 大野城市  新日本婦人の会福岡県本部

原爆悲し、川底に眠る被爆者の魂

 

 私が初めて原爆のことを知ったのは、小学校6年生・修学旅行で長崎を訪れた時です。
原爆資料館でみた、焼け野原で何もない街、熱で溶けた瓶や鉄くず、焼けただれた人々の様子にことばもでませんでした。

 いまでも、残っているのは「原爆を許すまじ」という歌。~身寄りの骨うめし焼け土に~と、詩やメロディーから悲しさが心に響き、三度(みたび)許してはいけないという強い思いや誓いが伝わってきました。

 義父は広島の被爆者です。2021年95歳で亡くなりましたが、その前年「原爆悲し、川底に眠る被爆者の魂」という下記の被爆証言を残しました。
当時広島大学2年生19歳、8月1日学徒戦闘隊が結成され、その隊長に命ぜられました。8月6日、命令書の受け取りにいく途中、軍隊通りで被爆します。
 爆心地は原爆ドームがある場所、爆心地の真下は約3,000~4,000度、被爆した人は灰も骨も残っていません。逃げ場を失った大勢の人が、助けてくれ!水をくれ!と叫びながら川に飛び込みました。
 街は一面焼け野原、広島近隣から、戦争にいけない高齢の医者が衛生兵2人を連れてきましたが助けるすべはありません。
義父も全身にケガをしましたが、命は助かったので死体を焼く係りに狩りだされたそうです。死体が腐ってくる、早く焼かにゃいかん、次から次に「これをお願いします」と運んでこられる死体を焼くのです。学生3~4名で朝から晩まで無表情で涙も流していません。死体を持ってくる人も焼く人も感覚が完全にマヒしています。

 川の土手で焼いた死体はどうしよう・・。川に捨てなしようがない、と片っ端から川に流しました。

 爆心地近くに元安川というのがあり、別名白骨川という。昭和21年、終戦の翌年その川で洪水があり、水が流れなかった。その理由は、川底の骨がいっぱいでそれにゴミが溜まったから。「原因は骨!それなら・・」とアメリカ軍が重機でグワーッと積み上げて燃やしてしまった。他の川も同じように骨がいっぱいなんです。

 広島の原爆で死んだ人は約14万人、身元の分かった人は約半分の7万人。これは親父らしい骨だ、これは妹かな・・と拾える人はみんな拾った。行方不明者は川に飛び込んだか、瀬戸内海に流されたか、戦後80年、未だどこに行ったか分かりません。

 広島に来られる方、新幹線や山陽本線に乗られる方も川の上を通る時には、この川底にたくさんの被爆者が今も眠っているということを想ってください。そして、祈ってください。広島にはいいところがいっぱいあります、戦争の犠牲者があって今日があるのです。
これまでいろいろな事を一生懸命やってきました。戦後、仕事を50年、原爆の語り部ボランティアを30年やってきました。みなさん、今日があるのは誰のおかげかよく考えてください。

 平和な世の中を信じ、犠牲になった多くの人の想いを決して忘れてはなりません。
 戦争を起こすのも平和を守るのも私たち人間です。
 つたえてください、あしたへ・・・。

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