戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

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更新日:15年08月03日

昭和二十年のこと



谷口義光

 もう五十年も前のことなので日時・場所などさだかでない。

元満州、チチハル中学三年。昭和二十年六月五日からニケ月間、一番季節のよい時期に学徒動員として開拓団へ行かされた。チチハル駅を出発、ノンヂヤン駅を降りて馬車であったか、見渡す限り丘陵の続く草原、すずらんの香りをかぎながら団本部に着いた。

開拓団の名前は、北学田だったか、下学田だったか二隊に分けられたので覚えていない。

団長は60歳位のゴマ塩頭、白ひげで多分東北訛りだったと記憶している。

私は三名の同僚と本部付きで一軒の宿舎を与えられた。隣は担任の先生とインターンの先生で心強かった。

不思議なことにトイレがない。聞くと「その辺でヤレ」云う。「大は」というと「同じ」だと云う。「草むらでは蚊が喰う」というと「庭で」という始末。何故きれいか疑問を抱いていたら「ブタが掃除をしてくれる」そうで、そこらを走り回っているブタを見てヤット納得した。

作業は主としてバター工場でバターつくり、と云っても木製タルの中のロール状缶にクリームを入れ、外側に水を入れ回転させながら冷して製造するのであるがこの水汲み方である。勿論クリームは遠心分離器、下部コックから出て来るのがクリームで、底のコックから出て来るのが脱脂乳であり、これはブタのエサとなっていた。水は工場から50米程も離れた所に、30米の深さもあろうかという井戸で中国式の丸太をグルグル回してロープを巻き引揚げるものだ。

ヤントン缶(石油缶)に汲み、天秤棒で運んだ。はじめはフラフラ腰を取られていたが、やがてしなりに調子を合わせ肩の皮もむけなくなったが、少年には重労働だった。水はあくまでも冷たく澄んで、身体にかぶれば心臓が止まる程であった。

この仕事は隔日毎、あとは廃墟となったデンプン工場のデンプン粕が異臭を放っていたが、これを埋める穴掘り、10米四方位のものでスコップで掘ったが日照りの日の暑さは言語に絶する程で井戸水のガブ飲み、汗を吹き出させながら休みなく働いた。この時、同僚から「お前は働き過ぎだ」と云われ、仲間と働くという事はどうゆう事なのか、学ばされた。その時16歳、一番正義感の強い、感覚性のあった時、なにもかもはじめて、社会に出た新しい体験であったのですべて新鮮で記憶もなまなましかった。この時期に人間がつくられて行った様な気がする。

食事は麦めしとつけ物、うすくて中味の少ない味噌汁と殆ど毎日変わらず、時にはジャガイモの煮付、肉なしだった。ただ牛乳だけは、鍋一杯暖められ何杯も飲んだが、やがて下痢、医者が一緒に居たので薬で助けられたが、下痢は終戦後も続き苦労した。

宿舎の隣、といっても50米先に厩舎があり立派な黒と茶のたくましい種馬がいて大男の馬丁さんがこの馬を操り、運動させていた。小柄な眼鏡をかけた可愛い奥さんが満一歳位の子供をいつも抱いていたが、時々夜中に大声がしてドタバタと金切り声もまじりの騒ぎがあった。

その日の昼は決まって厩舎の庭の向こう隅で、小柄の中国馬の種付けが行われていた。

これを奥さんがまんじりともせず子供を抱いて見ているのも不思議だったが、私達も飛んで行って後方からかたずを飲んで見ていた。牡馬が厩舎から出て来る荒々しい息づかいや勇壮な姿、巨大な一物、終わってからの笑いとイナナキと勝ち誇ったようにパカパカという並足での上下動の勇姿は感嘆する他なかった。

一ケ月程で交替して部落へと行ったが、五軒一部落には男性は一人しか居なかった。

何処も同じで、最近すべての男性が招集されたとのことだった。

宿舎に決まった家は、小学四年生を頭に四人の子供達がいて、夏なのでオンドル(床式暖炉)の火は入っていなかったが、薄っペラなフトン一枚に五人の子供と母が放射状に寝ていたのが印象に残った。

作業は除草で、レーキで草を欠き、一本のうねを何処までも前進する。もう一うね帰って来て昼食、午後も同じ作業で夕方まで、雨が降ったら休みで畠が乾くまで待つ、他の仕事はした記憶がない。

食事は本部と変わらなかったが牛乳はなかった。楽しみは馬に乗ることで、奥さんから鞍の付け方を習い自分で乗った。同僚達からの聞き覚えで習うより慣れろ、我流で走らせるまでになった。四キロある本部、十二キロある駅までも行った。用心深く乗った。馬がおとなしかったので落馬の覚えはない。

何時だったか、駅からの帰り部落がなかなか見えない。小丘の小高い所に一人、馬上にあって夕日を眺めた時、真赤な夕日に映える雲、その影に真黒な雲、いく重にも重なり天から地平線にそそぐ。無限の草原と一体となったパノラマに恐怖すら感じ身震いを覚えた。すぐ馬を走らせたが今もわすれない。

七月下旬頃だったか、本部に行くと軍の高級乗用車が止まっており、公用の腕章を巻いた下士官が出て来ると、つづいて父が将官だったM君が出て来て車に乗った。離れて居り声も交わさなかったが親父に転地命令が出たとの事だった。彼は内地へ帰った。勿論飛行機で!

今にして思えば、その数日前、大男の馬丁さんが招集になり奥さんは泣いて赤い目を腫らしていたが、終戦後どうゆう運命をたどったのだろうか。

八月六日だったと思う、予定通りチチハル駅に多くの家族に迎えられ降りた。別の隊は何故か列車の都合で帰らなかった。到着は九日だった。すでに軍隊は南下をはじめており、列車の確保が出来なかったのではなかったろうか。多分その日にソ満国境は突破されていたので危機一髪でたすかったと云える。

それにしてもあの満蒙開拓団の悲劇は、関東軍がこの人達を見殺しにして真っ先に逃げた処にあったことは間違いない。

二・三日休みだったが不安な日を過ごしていたら一部友人達は防衛司令部に行っているという。私達は二年の時、週一回防衛司令部で国境警備隊との直通電話回線の試験、通話の確保をやっていた。一旦緩急ある時のためだったのだ。「よし俺も行こう」と腹を固め、母と水盃ならず、腹ごしらえをして別れた。

司令部はごつた返していた。二年が訓練をうけ早くからは入っていたようだが、もう殆ど通信連絡はなく、友人達はボックスに入り通信確保に懸命だった。人数も揃い十五日は非番で家にいた。正午重大放送を聞いたが雑音で意味不明だった。戦争は終わったとの事だったが防衛司令部に行くことにした。隣の叔父さんが満人部落の近くを通っていくので危ない。これをもっていけと立派な皮を覆った小ぶりの日本刀を貸してくれたので勇躍出かけた。司令部に着いたら異様な騒ぎである。

友人から、今S先生が生徒への最後の歴史教育だと云って、庭に戸板を敷き、切腹をすると腹にさら布を巻き軍刀を抜いた所、数人の下士官が押さえこんで刀を取り、思いとどまされた所だったと聞いた。

S先生は沖縄出身だった。

結局、生徒は帰宅せよ!!との命令で家に帰ったがもう引揚げ騒動は始まっており、満鉄社員家族は明日にも出発と云われていたが、列車も止まった。

二十日前後だったか、青い制服のソ連隊が飯盒とマンドリン(自動小銃)を持って駅前通りを行進して行った。

ここから避難生活、そして翌年十月に引揚げ出発までチチハルに居た。地元にそのまま居たこともあって母と二人の生活には移住者の方ほどの苦難はなかったが、不安は一杯だった。満鉄の育成を出て暗号解説をしていた大賀さんと同居となり、戦争の原因は資本主義にある、アメリカに世界の「金」の六割が集まり戦争がはじまったなどと教えられた。

十月には中国共産党軍が入って来たが、規律正しく、又ある時、寮の講堂にあつめられ山下という日本人の宣ぶ班員が演壇でプカプカ煙草をふかしながら「新民主主義」の話だったかをしていた。よくわからなかったが満州生まれの満州育ち、このままこの地に残っても良いなどと考えていた。

(北九州市門司区在住)

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