戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

更新日:15年08月03日

〝平和への想いこめて〟 =戦争孤児になった弟と妹にめぐりあえて=



深谷節子

〈私の家族の戦争体験〉

五十年前、私は中国の大連市に住んでいました。父は日本では職がなく、五族協和、大東亜共栄圏の美名につられて大連に新天地を求め、昭和十二年、まだ三歳だった私と母をつれ中国に渡りました。

昭和二十年八月十五日、真夏の太陽が照りつける日、戦争は終りました。軍国少女だった私は「とうとう『神風』はふかなかった」とボロボロ涙を流しました。

その時、私は大連市大広場国民学校五年生、母と、弟正一は二年生、妹久美子は一年生、その下の弟清八は四才、妹安枝二才の六人家族でした。学校では、毎日手旗信号や竹槍、救急看護の訓練ばかりで、勉強はありませんでした。

わずかな配給のお菓子も兵隊さんが持っていきました。(学校の講堂には沢山の兵隊さんが駐屯していた)キャラメル一箱、水飴一すくいは月一回、いつもお腹を空かしていました。子どもにとっては大変つらい時代でした。父は、終戦の年の二月に「赤紙」が来て現地招集で出征しそのまま敗戦でシベリアに抑留され、二年後に日本に送還されていました。勿論のこされた私たちは知るよしもありませんでした。

大連に残された私たち一家に飢えがおそいました。豆腐一丁が一日の家族五人の食べものです。大連にはソ連軍が進駐し、マンドリン銃をかかえ家々に押し入りまだ若かった母をめがけておそいかかりました。五人の子どもは恐怖で母にとりすがり大きな声で泣き母を放しませんでした。さすがに兵隊も手を出さずに出ていきました。

学校の講堂には、奥地の開拓団から大勢避難して来た人であふれ、日本に帰りたいという思いを胸に、毎日、飢と伝染病で子ども、お年寄りが死んでいきました。また、親が死んで残された子どもたちの面倒は、だれも見てやることはできませんでした。私は、海岸でカニをとったり、畑で人参やサツマイモをとってかじり飢をしのぎました。しかし、四才と二才の清八・安枝はそれもできず、栄養失調でお腹だけが異常にふくれ、腕と足はやせ細り日に日に元気がなくなりました。

 

〈一家の離散〉

すぐ下の弟正一は八才でした、「一人でも日本に帰りたい」と母を困らせ母は、しかたなく紙に住所をかき、風呂敷に包み、体に巻いて、引揚船にのせました。弟は親切な船長さんが親がわりに、三〇〇人ぐらいいた他の孤児たちと一緒に、佐世保に着き苦労の末に、父のもとに帰りついたことを後に知りました。

しかし、母は父が現地招集だったので、生きていれば帰って来ることを信じ、大連をはなれることができませんでした。食べるものがなくなり、まず末の妹安枝が、そして弟清八が、中国人に連れてゆかれました。母の気性をそのまま受けついだ気の強い二才の安枝が涙一粒も見せず、観念して連れていかれる時の目を私は忘れることができませんでした。四才の清八は、いつも「お腹がすいたよお」と泣いてばかりいましたから、御飯が食べられると聞いてにこにこしてつれていかれました。一年生の久美子も去り、私も連れていかれました。しかし、十才の私はすきをみて母の許に逃げ帰りました。母は、引揚の再開を待つ収容所にいました。収容所では、いつ来るかわからない船を大勢の日本人が待っていました。ある日、母と二人で市場へ買物にいく途中、向こうから赤い中国服をきた女の子が歩いて来るのです。「アッ、久美子だ」私は叫びました。小さな空缶をもって煙草の吸殻を拾っていたのです。(当時は戦後の混乱で中国人も生活が楽ではなく、子どもも何かの仕事をしていたのです。)母は、物も言えずに妹の手をつかむが早いか、一目散に収容所に連れ帰りました。養父母が探しに来ましたが、みんなが私たちをかくしてくれて、一週間ほどしてあきらめて帰りました。何故か偶然妹にめぐりあえるとは夢にも思いませんでしたから、母の喜びは言葉にはつくせません。私と妹は、大連から藩陽市(旧奉天)にうつり、日本人完全小学校の中等部を卒業して、東民医院の訓練班(看護婦を養成するところ)で見習看護婦として働きながら学んでいました。当時落陽には、中国人民解放軍に入っていた日本人の看護婦さんや、お医者さん、技術者の人達が、近づく引揚を前に、地方に集まっていました。中華人民共和国が成立して、活気に満ちた時期でした。私も訓練班の人達と、学習会や文化活動で、とくに腰鼓(小さな太鼓)は得意で、メーデーや、国慶節には朝早くから集会にあつまり元気に活動していました。

 

〈母・妹と別れて〉

昭和二十八年、引揚が再開されて、母は妹を連れて帰国しました。しかし小さかった清八と安枝は中国にとり残されました。母は帰りたくないといいましたが残留は許されませんでした。母はこのことで三十三年間苦しみ続けました。またやっとたどりついた日本では、先に帰っていた父は再婚していました。一人で帰った弟正一が、もう母も姉も妹達も生きていないだろうと話したそうです。弟は八才ですから、そして自分も苦労の末父の許に帰っているのですから、やむをえないことでした。

母と妹の引揚を見送り私は中国に残りました。十九才になった私はもともと好きだった歌の勉強をしたいと思いました。十才からほとんど勉強の機会もなく、はたらき通しだったから……幸い四川省成都市にある省立歌舞団に入ることができました。ここで結婚し生後三ヶ月の息子信一と家族三人で昭和三十三年六月二十二日、緑したたり、青々とした海の色が目にしみる舞鶴港に二十一年ぶりに帰り着いたのです。

 

〈涙の再会〉

一九七六年、六月十三日付けの朝日新聞で残留孤児の親さがしの写真と記事がのりました。まだ消息のわからない弟と妹のことはいつも気になっていました。ふと……一枚の写真が目に止まりました。一人の男の子の写真です。私の息子によく似ていました。記事を読んでいるうちに「もしかしたら弟の清八ではないだろうか」と一瞬思い、急いで家に帰りその新聞を母にみせました。母は、しばらくじっと見、電灯にかざして……母の目から涙がとめどなく流れました。「清八に間違いない」と叫びました。そうです。ついに三十三年ぶりに弟を見つけることができたのです。肩の荷をおろしたように、母は二

年後に亡くなりました。戦争のために苦しみ続けた一生でした。やっとこれからという時だったのに。

こうして弟と妹は、日本に帰りました。しかしそのために三十三年間わが子として育てた中国の養父母はまた生き別れとなりました。養父母は、いま年老いて中国で淋しく暮らしています。だからと言って二人をせめることはできません。自分の意志でなく、幼くして他国に置き去りになった二人が、父母や兄弟にあいたい、帰りたいと思うのは当然です。

侵略戦争という、とりかえしのつかない政治の過ちがもたらしたのですから、養父母は弟や妹を大切に育ててくれた上に日本に帰してくれました。私は侵略された側の痛みと優しさをあらためて認識させられました。妹の養父は「いつかこんな時が来るのではと思っていました。」と話してくれました。今一年に二・三回は弟も妹も大連にあいに帰っているようで私もほっとしています。

 

〈子ども達に語りついで〉

十五年にわたる前の大戦で、三百十万人の日本人と二千万以上のアジアの人々が殺され、日本の敗北で終りました。私たちは戦争に反対しなかったが故に加害者であり被害者になり二重に苦しみを味わいました。「なにも知らなかった」ではすまされないことではないでしょうか。今私は北九州の小中学校で、毎年八月九日の平和授業に招かれて語り部の仕事をつづけています。きっかけは、弟と妹が見つかり新聞にのったことです。最初は北九州母親大会の「戦争を語りつぐ」の分科会で話しました。その分科会に来ていた教員組合婦人部の先生が、小倉支部婦人部集会でぜひ話してほしいといわれ、以後小中学校から八月九日の登校日、十二月八日、PTAのお母さん、新日本婦人の会の平和キャンプ、母と子の平和のつどいなど、福岡県内で年を重ねるごとに広がり「PKO」自衛隊の海外派兵がおこってから、若いお母さんの不安やいかりが、いろいろな集まり、学習会など熱心なとりくみがありました。私にとっても五〇年前の辛く悲しい体験がだぶりじっとしていられませんでした。体験者としてのささやかな活動ですが、私の体験を聞いた子供達が沢山の感想文をよせてくれました。共通した内容は、親と子が離ればなれになる・食べるものがない・自分たちだったらたえられない。戦争は人の命をたやすく奪っていく。深谷さんは親子が再開できたけど他の残留孤児の人達も早くあえたらいい……澄んだ子供たちの瞳は、私の言い足りない部分もおぎなって、きちんとその本質をとらえてくれています。又、父母の集まりで話したときの感想文では、「戦争が遠くになりつつある」「若いお母さんにもつと話してほしい」「はじめて聞いた」が圧倒的でした。

 

〈戦後五十周年を語り部活動の出発点にし〉

〝なにも知らなかった〟では済まされないことは今、戦後五十周年目に従軍慰安婦問題、被爆者の援護問題、侵略戦争を認めない政府発言など、枚挙にいとまがない程、なに一つ解決されていないのが、日本の現実です。数多くの戦争で死んでいった物言えぬ人々にかわって、生き残った私達は、自らの体験を語ることと、この五十年日本の若者達が、銃をもって他国を侵略しなかったのは、日本国憲法の第九条があり、二度と侵略戦争を許さない草の根平和運動(原水爆禁止運動・母親運動など)のつみ重ねがあったからではないでしょうか。戦後五十年の歴史の真実をしっかり学んで、誰が、どの政党が侵略戦争に加担していったのか、誰が、どの政党が生命をかけて反対していったのかが明らかになって来ている今日、私達戦争体験者に時効がないように引きおこした側にも免罪はないことをせまる活動を一層つよめていこうと、五十年目にあたってこの原稿を書きながら決意しています。

(北九州市小倉南区葛原本町在住)

<< >>