戦後70年企画 1995年9月に発行 「語り継ぐ未来へ」私と戦後50年 ピックアップアーカイブス

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊「語り継ぐ未来へ…私と戦後50年」は1995年の夏、戦後50年を迎えるにあたって平和をゆるぎないものにするためには、私達自身の「出発点」「原点」を見つめなおし確認することから始めなければならない、との思いから戦争と平和にまつわる体験と想いを寄せていただきまとめたものです。
九州機関紙印刷所の呼びかけにこたえて58人の方から作品が寄せられました。
今回は、8月15日の終戦記念日まで、その作品のなかからいくつか紹介していきます。


更新日:15年05月29日

故旧忘じ難し 「死んだらいがね」 



瀬川負太郎

一、

語り継ぐ未来へ 私と戦後50年 九州機関紙印刷所刊

語り継ぐ未来へ
私と戦後50年
九州機関紙印刷所刊

敗戦の年の三月、休暇が出た。陸軍船舶情報連隊特別幹部候補生、私は座金付き(候補生の印で現役兵には馬鹿にされた)の上等兵になったばかりで、教育中隊は神戸市須磨区の若宮小学校にあった。すでに大阪、神戸は空襲にさらされていた。その最中の休暇は大方、出動命令が出たのであろうが知る由もなく、わしらは無邪気に喜んだ。

家に帰ったら、俺をいじめた奴を張り倒してやろうと思った。だが、九州方面は空襲激化により差し止めというのである。どうせ出動になれば生きて帰れない。その前に娑婆の空気を吸い、おふくろに会いたかった。それが駄目だというので、母親の実家がある伊那へ行くことにした。

しかし、その住所は知らない。ただ伊那の大坊とおふくろから聞いていただけである。一度も訪ねたことはなかった。行けばどうにかなるとたかをくくって汽車に乗った。豊橋から飯田線に乗り換え、天竜川に沿って夜汽車は走った。こういう所へ行くが、どこで降りたらいいかと乗客に聞くと「伊那北で降りるずら」と教えてくれた。

伊那北では未明に下車した。雪が吹ぶいていた。駅員に大坊の方向を尋ねて歩き出した。人家が途切れ山道にかかると、積雪は膝をこえた。別れ道にかかり右せんか左せんかと迷った。四角い・石が雪の中から頭を出していた。雪を払うと左大坊、右高遠の刻字が浮き出した。迷わず左に進むうち谷川の道筋に農家が点在していた。ここが大坊に違いない。

夜が明けた。自分は雪をかき分けて渓流に降りると朝飯を食い、飯盒を洗った。最初の家では紺絣の娘が雨戸を明け、座敷を掃いていた。俺によく似ている顔だと思った。俺が庭に入ると娘は驚いてポカンと口を開けた。早朝、いきなり兵隊が現れて仰天したのだろう。そこで伯父貴の家が分かった。おふくろの育った家である。

 

二、

「おめえが特攻隊の光男ずらか」と伯父貴の家族は目をむいた。小さな従兄弟がワッと囲炉裏端に集まって来た。血縁とは妙なもので、それがみな俺に似た顔つきをしている。似たような雰囲気を持っている。でも俺は、何となくこの伯父が煙たかったので泊まらなかった。その日のうちに小学生の従弟が道案内して、美簾村に行った。美簾かる信濃の真弓…と枕詞になっている。そこに伯母の家がある。雪は上がり、信州の空は明るかった。伯母はおろおろして俺を迎えた。初めて見るその顔に、おふくろの顔がだぶった。伯母の家は伯母夫婦と、私より一つ上の従姉だけがいた。従兄は応召していた。伯母は「光男や、光男や」と言い、何が食べたいかと毎日尋ねた。

 

初めての夜、姉さんは「ライスカレー作るべ」と言った。囲炉裏の鍋につぶした鶏を入れ、カレー粉の代わりに生姜をすり下ろしていれた。カレー粉などもう手に入らなかったのである。伯母家族が私のために歓待を尽くしているのが分かった。思えば当時、農村も強制供出で食糧が豊富であるわけがなかった。伯母たちは息子同様、戦地に赴く甥にせめて腹一杯食べさせて送りたかったのであろう。無口な伯父は自分に乗馬を教えてくれた。農耕馬でも馬は馬だ。毎日、馬に乗って遊んだ。騎乗して大坊まで出掛けた。村の子どもがぞろぞろ付いて来る。おらは馬鹿だったから、何となく得意だった。

姉さんはいつもにこにこしていた。中隊慰問に宝塚少女歌劇団が来て「おてもやん」を踊ったことがあり、その女優に何となく似て、あどけなかった。自分が来たのを弟ができたように喜んだ。従弟だから弟には違いなかった。馬から下りるとすぐ風呂に入れと言う。座敷の庭を隔てて馬小屋と風呂が並んでいる。俺が入っていると馬が湯殿に顔を突き出す。俺がゲラゲラ笑うと姉さんも笑った。夕食がすむとアルバムを広げ、女学校や女子青年団で撮った写真を説明した。駒ヶ岳登山の記念撮影では「こっちが東駒で、こっちが西駒ずら。光男さも、けえったら登って見るだに。死んだらいがね」。

空襲はなかった。まるで別天地に来て、揺り篭に揺られた思いだった。滞在した数日はあっと言う間に終わった。姉さんは汽車の時間を調べ、バスで伊奈北駅まで送ってくれた。そうして涙ぐみながらまた言った。

「光男さ、死んだらいがね。生きて帰って来るだに。おら、光男さ、けえって来るまで嫁さ行がねずら」。おれは馬鹿だから姉さんの言葉の意味が分からなかった。ただ「うんうん」と答えた。

 

三、

私が特攻隊と思われたのには誤解がある。確かに当初は水上特攻だった。「マルレ艇」と呼ぶのがそれで、ベニヤ板のボートに自動車エンジンを搭載、前部に爆雷二個を装備して敵艦に体当たりする。特幹の歌ができたり「海の白虎隊」とかいう映画が作られたりしていた。その訓練中隊から自分は警戒機教育隊に所属変更になった。

新しい教育中隊は音波探知機による敵潜水艦捕捉の訓練をしていた。この探知機を「す号機」と呼ぶ。輸送船の船底から潜凾が突き出しており、そこに等身大の置き時計みたいのが据えてある。音波を発射すると丸いブラウン管ディスプレイの周囲を光点が回り、障害物に当たると反射波が起こり方向と距離が分かる。それを司令室に報告し、攻撃を回避するという代物だ。船底のそのまた下にいるのだから、沈没すれば必ずお陀仏だ。「す号機」を据えた潜凾を棺桶と呼んだ。特攻隊と似たようなものである。

水中秒速千五百メートル程度の音波で索敵している間に、米軍のレーダーはとうにこっちを捕捉している。おまけに、もう護衛すべき船腹もなかった。だから「す号機」訓練は何時の間にかなくなり、もっぱら斬り込み訓練ばかりになっていた。

空襲が続いた。大阪も神戸も焼け野原だ。中隊兵舎の屋上に上ると一面、瓦礫の町が広がっていた。八月十三日、出陣式が行われた。敵、対馬上陸の形勢あり、中隊は斬り込み隊となってこれを邀撃(ようげき)するというのである。各自、遺髪遺爪を切り、家族に最後の手紙を書けと命ぜられた。自分の出した遺書は敗戦直後、疎開先の母に届いた。母は手紙を抱き、裏の竹やぶに入って終日泣いていたという。

八月十五日正午、一種軍装で中隊整列の命令が出た。玉音放送である。ラジオはやたら雑音ばかりで何を言っているか分からなかった。中隊長は「忝なき聖旨を奉戴し、任務を全うするように」と訓示をした。中隊長にも意味不明だったのだ。そのまま待機という命令が兵装解除になった。戦争に負けたという話が伝わった。対馬作戦は消えた。中隊には懶惰な気分が広がった。

敗戦の翌日は海岸動哨についた。須磨の浦の動哨線に出ると、浜辺には一斉にビーチパラソルが開き、水着の娘たちが戯れていた。俺は、かつて見たことのない光景に一瞬茫然とした。昨日まで空襲の炎に追われていた現実とはあまりに違う。そして思った。ここはブルジョアの別荘地だったのだ。戦争が終わって彼らは復権したのだ。

晴天が続いた。わしらの仕事はもっぱら戦場整理という名の、焼け跡整理だった。そこには年配の国民兵も来ていたが、ボロボロの服に地下足袋、下駄ばきもいて、竹製のゴボ-剣、竹筒の水筒という乞食姿だった。

敗戦数日後、俺たち候補生は上等兵から伍長に二階級特進した。士官見習い候補生も同じく少尉になった。こういうのをポツダム将校と言っている。軍隊が消えるのに将校にされてもしょうがあるまい。それでも新米将校は新品の軍服・長靴(ちょうか)に軍刀を吊り、嬉しくてしょうがない風情だった。中隊の外は丸焼けで、罹災者が着るものも食うものもなく、焼けトタンなどで作ったバラックにうずくまっている。ピカピカ将校の姿を、俺はどうも納得できなかった。そして数日後、兵器の没収があった。

俺は自分の九九式歩兵銃を運んだ。この銃は支給されても手入れをせず放っておき、グリスにまみれていた。一品検査で見つかり、銃床で殴り飛ばされ、各班を反省の申告に回された。「瀬川候補生、申告に参りました」と叫び、大元帥陛下からお預かりした歩兵銃殿に対して不敬の扱いをしたと詫びるのである。面白がって「やり直し」と言われたら、また繰り返す。自分はやたらに「気ヲツケッ、大元帥陛下」を乱発した。これを聞いたら、寝台でゴロゴロしている見習い士官の連中も、その都度正座しなければならない。面倒になって、「もうよし」になるのだ。

その銃が、薪でも積むようにトラックに放り込まれて山になった。「陛下のお貸し下された」兵隊の命より大事な兵器が無造作にゴミ扱いだ。ゴボー剣も新米将校に下給された軍刀も同じ運命だ。これで軍隊は消えたのである。九月に入って中隊解散式が行われた。もはや無腰の中隊長は「帝国陸軍は一時、解散する。諸君ら神兵はそれぞれの故郷に復員するが、神兵野に隠る。幾十万の神兵が全国の町、村に散り、時を待って再び決起する日のあることを信じる」と訓示した。今にしてみれば半分、合っているような気がしないでもない。

自分は九月六日、梅田駅から復員の列車に乗った。

 

四、

母たちの疎開先は大分の山村で、農家の一間に寄寓していた。襖一枚隣りでは、家族が白い飯を食っていた。こっちはイモ雑炊だった。隣りが米を分けてくれるということはなかった。弟や妹は学校では何かと「疎開っ子」と呼ばれ、いじめられていた。昼食の時間には小一里の道を雑炊を食べに帰った。野荒らしがあると「疎開っ子」のせいにされた。母は小倉に帰るため手を尽くしていた。切符を買うためには三日三晩ぐらい駅で泊まり込み、行列を作らねばならなかった。

疎開者の行列を尻目に、地元の農家は米かイモか、何やら食料を駅舎に持ち込み駅員とくっちゃべって切符を手にし、さっさと汽車に乗るのである。「じゃ一じゃ一」という会話の合いの手を疎開者は黙って聞いていた。農村社会における抗議の無意味を、疎開生活で身に染みていたからだ。俺は大分が大嫌いになった。

年の暮れ、やっと小倉に戻った。母は毎日の食料調達に骨身を削っていた。わしんとこはまだ復員しない兄を別にしても兄弟六人の大家族で、俺は次男だ。一人幾つずっという配給のトーキビ粉の団子汁をどんぶりに分けた後、母は残りの汁をひっそりとすすってすましていた。

夏、母は風邪を引いて寝込んだ。俺は板櫃川ヘハゼ釣りに出掛けた。小学生だった自分が馴染んだ川だ。バケツ一杯、ハゼを釣ったこともある。だがそのときは、たった二匹しか釣れなかった。俺がそれを醤油で煮た皿を出すと、布団に伏せた母は頭から丸かじりに食べ、「ああ、うまかった。これで癒るよ」と微笑んだ。ほんとに翌日は起きた。俺は長野へ食糧疎開をすることになった。一人でも減れば母が楽になると思った。その程度に俺は馬鹿で幼稚だった。

 

五、

変な気分だった。長野は「女工哀史」のふるさとである。多くの娘が口減らしのために売られ、年季奉公に出た。そこへ自分は口減らしのためにやって来た。あべこべだ。

私を迎えた伯母は「おめえは生きてけえったか。えがった、えがった」とは言ってくれたが、当惑した面持ちだった。義兄も復員していた。姉さんもいた。以前と少しも変わらず、私に接してくれた。自分が来訪の目的をどう説明したかは忘れた。翌日から田の草取りに出た。

姉さんと一緒に田んぼに出ると、風は爽やかに青い稲田を波打たせ、その根元をヒゴイやマゴイの稚魚が遊弋していた。夏の伊奈谷は燦然と照り映えていると思われた。姉さんに教わって稲株の回りの雑草をかき取り、泥の中に押し込む。稲の葉先きがチクチクと顔を刺す。汗が目に入っても拭くこともできない。腰をかがめての労働に休み時間はなかった。一日の仕事が終わると、俺はものも言えず疲労困憊していた。

夜は、離れに姉さんと一つ蚊帳の中に寝かされた。開け放った座敷の庭には蛍が舞っていた。だが、稲の葉先きに刺された自分の顔は膨れ上がり、両手がうずいた。爪の半分ほどまでに泥が染み込んで、風呂に入っても抜けなかった。自分は痛みに寝られず、両手を胸の上にかざして涙をこらえていた。復員伍長もざまはなかった。姉さんは「痛いかね。そのうちなれるずら」と、おれの両手を胸に抱え込み、じっとおれを見ていた。何だか安心して眠れた。

そんな毎日が過ぎた。夜は姉さんと枕を並べて寝た。問わず語りに、姉さんがなぜ家にいるのかが分かってきた。姉さんは敗戦後、材木屋の息子の復員将校に見初められて結婚したのだった。戦後復興の時期だ。建設材料の中心である材木屋は有卦に入っていた。

「おら、その気なかったども回りから小突かれて結婚したずら。だども、それが横暴でなえ。たまらずに飛び出しただに」。

新婚生活は三か月で終わり、実家に帰って来たのだ。「おてもやん」になったのだ。俺ははたと理解した。なぜ、伯母が俺と姉さんを離れに同室させているかだ。そして伯母はこうも言った。

「光男や。おめえ、姉を九州に連れて行かねか。食い扶持は送るだに」

農村社会で出戻りは恥である。姉さんは実家の掛かり人(かかりうど)になっていたのだ。義兄も嫁を取ることになる。姉さんは余計邪魔になる。昔は従兄弟・従姉妹の結婚を怪しむところはなかった。そして姉さんが、「光男さ帰らねば、嫁にいかね」と言った言葉に、伯母は一縷の望みを託していたのであろう。だが俺は、男と女のことを全然分かっていなかった。一緒に布団を並べているのはあくまで姉さんで、それは侵すべからざる人だった。

信州の秋は早い。一夜で全山、紅葉に覆われた。伯母の家の裏に小さな森とほこらがある。ぶらぶら出掛けると、鬼ふくべが幾つも転がっていた。フットボールぐらいの丸い茸で、蹴っ飛ばすと煙が立つのだった。俺はもう帰らねばいけないなと思った。「姉さん、ごめんね」と胸のうちでつぶやいた。

 

六、

四十五年後、事業をしている弟が関東に作った出張所に出掛けたついでに、長野の親類を訪問して撮影した写真を見せた。風景はすっかり変わっていた。自分が雪中を歩いた大坊の山道も舗装道路になり、母の実家は藁葺きから瀟洒な建築になっていた。美簾の伯母の家もあった。そこに姉さんの微笑して佇む姿があった。昔の面影のままに、豊かな感じのお婆さんになっていた。懐かしかった。往時の記憶が断片となって俺の脳裏をかすめた。あれから色々あったのだろうが、今は一人住まいだという。手紙を書こうかと思ったが、止めた。

俺の青春の門前で会った人だ。記憶を今に引き据えてはならない。記憶の人と再会したり文通をするのは、三十数年連れ添った今の女房に仇をすることになる。俺と女房の関係をあべこべにしても同じだろう。妙なもので俺の女房の原産地は、俺の大嫌いなはずの大分だった。産地の印象と製品は違っていたのである。私は姉さんの記憶を、「死んだらいがね」という言葉と共に、胸にたたみ込んで置くことにした。

(北九州市小倉北区在住)

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