私の戦後体験
黒川一昭
(一)
一九四五年八月十五日、私はその日を奉天と安東の中間、周りを樹木は殆どない山で囲まれた本渓湖で迎えた。冬は勿論寒いが夏も内地に負けないくらい暑い。
八月に入ってソ連軍の参戦、南下。そのすこし前に徴兵年齢の切り下げ、四十歳台の男たちの根こそぎ再招集。情報統制の中でも、戦況の不利は誰の目にもわかる時がやってきていた。それまで空襲も殆どない、比較的平穏な日々が続いていた中で、突然に、あわただしい変化がやってきた。内地の空襲がはげしくなり、送り返えせなくなった中国戦線の傷病兵たちが、病院の移動と共に、太子河沿いの女学校に臨時開設された陸軍病院に移ってきた。
猛烈な速さで入ってきたソ連軍と前後して、取り残された避難民の群れが町にあふれ、南へ向かっていった。まもなく冬を迎える満州で、人はどう生きるかと、不安と飢えの恐怖に戦いていた。
(二)
渡満、植民地支配の一翼として
一九四一年、父親の死で中学進学を断たれあらためて高等小学校から師範学校へ、まだ夢をふくらませていたが、一九四三年、志望していた進学を断念、教師のすすめるまま、満州へ渡るために、茨木県の鯉渕村につくられたばかりの、鉱工青少年訓練所へ、そこで一ケ月の準備訓練の後、奉天南部の本渓湖煤鉄公司に入所するため、玄界灘を渡り、朝鮮半島を縦断、安東駅での始めての税関検査を体験、外国といっても植民地の満州に渡った。そして本渓湖煤鉄公司、実科教習所(旧技術員養成所)に入所した。
本渓湖煤鉄公司は、鞍山製鋼所、東辺道開発と並んで、旧満州の重工業の生産拠点である、本渓湖だけでも、低燐炭の大炭田と、隣り合わせにある廟児溝鉄山を抱え、数万人が働く典型的植民地支配の工場である。その技術員養成所は、日本軍国主義の若き尖兵たちであった。五月の四時はまだうす暗い。肌寒い。見ず知らずの町のアカシアの並木も黒く、始めて外地に足を下ろした少年たちの、ここは外国なのだという感情は、親元を離れてきた十四歳の少年に淋しさ以上に、未開の天地をこの目でみる緊張にふるえていた。
(三)
陸軍の内務班の生活をとり入れた二年間の寄宿舎生活は、入所生の半数が厳しさに耐えきれずに帰国していく程だった。しかしこの二年間が、植民地支配に必要な、非人間性を身につけさせる修練の場でもあったのだ。
やがて教習所を卒業し、製鉄所に入社し、変電所に配属され、十五近くある変電所を転々として仕事を覚えた。敗戦を迎えたときに居た大斜坑変電所の前には、鉄条網が張りめぐらされ、電流が流されていた。後で知ったことだが、八路軍の捕虜が収容されていた。
引揚げまでの一年余り、混乱の中での生活を送ることになった。
(四)
敗戦、立場逆転の悲惨な生活、二つの違った軍政の体験
八月十五日、終戦の「玉音放送」を炭業部の事務所で聞いた。よく聞きとれなかったが、戦争が終わったことだけは判った。その日1日は虚脱感で仕事は手につかなかった。いっしょに働いていた中国人たちの様子も変化しはじめた。二交代で片番四人位が居たが、十五日は昼番に当り、夜番の松永氏も出勤してきてくれた。四日程して、送電停止の連絡をとらずに配電線の修理をはじめた中国人の1人が感電して落ちた。
ソ連軍の進駐で、捕虜になっていた八路軍兵士を解放し、日本軍は武装解除して武器を渡した。ソ連軍による工場解体がはじまった。その日から町の治安は中国側に移った。
日本人の婦女子は息をひそめて家に隠れていた。
中国人労働者の反撥、暴動が起こった。職場では段々と中国人の欠勤が出はじめた。一週間もすると職場の権力関係は転換した。
日本人社員が本事務所に集められ、雇用関係の逆転が告げられた。電気関係が幸いして、働くことは失わずに済んだ。
夜になると反日暴動の警戒で、男子寮生たちは、町内の見張番にあたった。枕元に木刀を備え、終戦直前に作った陸軍の牛蒡劔を磨いて備えていたもので武装した。
敗戦によって殆どの日本人が職を失った。衣類の売り食いで命をつないでいった。乞食生活も出ていた。寒さを迎え、往き倒れも少なくなかった。
終戦直前の徴兵年齢切り下げで十八歳以上の男は居なくなっていた。もう生きていけるかどうか判らない。戦地と同じ、敵の真只中に居るような緊張感が、毎日襲ってきていた。
八月末から九月に入ってソ連軍に投降しなかった逃亡兵たちが命からがら逃げて、北満からの避難民も、奉天を経て本渓湖に辿りついた。殆ど着のみ着のままだった。大豆袋に穴をあけて首を出した女性の姿もあった。
九月に入ると夜は冷えた。ここに居ても冬を越せない人達は、更に南を目指して移動していった。残った者たちのひと冬がやってきた。
燃料の粉炭が幸い川にあるのでしのげるが、それも盗むのだから、いつ懲罰をくらうかわからない。スリルのなかで冬を迎えた。日本人の行政、企業の幹部たちが戦犯の名を着せられて、町中を裸足で引き廻され、太子河の河原で人民裁判に掛けられ、処刑された。その中には「日の丸義勇隊」に参加した養成所の同級生の顔もまじっていた。ある日、食うために八路軍に入った奄美大島出身の同級生が拳銃をもって脱走してきた。みつかれば処刑である。かくまった者も無事ではない。一晩かくまって、戻るようにすすめて別れた。果たして無事に日本まで戻れたか、その後の消息を聞かない。
冬を越した途端に国共内線が再開した。国府軍が奉天に接近した頃、日本人居留民に担架隊の使役が編成され、従軍させられることになった。日本の戦争には縁がなかった少年の私も、一人前徴用されて戦場を歩き廻る皮肉な運命につき合った。始めて弾の飛び交う下をくぐる破目になった。二週間位つき合って、本隊の退却に合わせて帰郷させられた。担架で負傷兵を野戦病院に運ぶ仕事だが、行動を共にした八路軍の兵士たちの装いが、昔マンガで見た雨傘を背負い、鍋や釜を天びん棒にかついだ姿を見ることになった。民衆に迷惑をかけない、人民の軍隊の生活に感心させられ、蒋介石の軍隊との違いを実感することにもなった。
五月に入って、国府軍の攻撃が力を増し、八路軍は撤退していった。行きがけの駄賃なのか、発電所や橋を爆破して去っていった。
代って国府軍が町に入ってきた。
こんどは国府軍の使役が待っていた。直径五十センチの丸太を陣地構築のため山頂に運び上げる仕事だった。途中で重くなって放り出そうものなら、銃の台床でなぐられた。
国共和平、引揚げ
アメリカの仲介で戦闘が停止したのを機に引き揚げが始まった。同宿の同輩たちがみんな帰るといって、こちらは仕事のため残留が命令され、生活も保障されていたが、帰りたい一心で、居留民団(日僑連絡所)の名簿作成に、目を盗んで名前を書き加えていたら、幸い第三次引揚げの命令が出た。名簿作成から一ケ月足らず集結の日が決まった。
一九四六年六月二十四日、本渓湖日傭連絡所前に集合、宮原まで移動し、小学校の校庭で一夜を明かし、出発を待った。
ところが、一日経っても乗車命令が出ない。心配していると、輸送司令部の中国高官が、要求をつきつけてきたという。うわさから日本の婦人に目をつけ、妾に出せと云ってきているという。
負けた側のつらさか、相手に不当な要求として説得するどころか、その晩一夜かけて引揚げ団の幹部たちは、要求をのんでくれと、その婦人を説得していた。その婦人は子どもと共に列から離れていった。この女性のご主人は職業軍人だったようだ。
翌二十五日、ようやく列車に乗車できた。貨物の有蓋者と無蓋車である。雨を心配して女と子供を有蓋車にのせる。宮原から遼陽経由で奉天に向かった。遮蔽物のない野っばらで列車が止まった。小用休止である。暴民の出現を警戒して、列車を遠く離れないよう注意して遮ぎるもののない原っぱ、皆んなの見ている前で男も女も用を足した。さすがに、男性たちは外向きに輪をつくり、中に女性をかくして用を足させた。
夜になって奉天に到着した野営である。プラットホームに足を伸ばして寝た。翌日になると再び列車が動かない。今度は列車警護兵たちが金銭を要求してきた。みんなでカンパを募って、ようやく動き出した。本渓湖を出て四日たっていた。
奉天から西は始めての土地だ。幸い土匪の襲撃に会うこともなく、錦西へ着いた。ここで次の命令が出るまで待機。外へ出て体を洗い、洗濯をし、広げて干した。うとうとと眠って目覚めると、下着以外のめぼしいものが残っていない。
二日して次の集結地コロ島へ移動した。ここから、日本からの迎えの船に乗るのだ。
コロ島について収容所近くを散歩していると、前の集団で帰国した筈の下級生たちに出会った。聞くと、集団の中に赤痢が出て、乗船できずに残されているのだという。もう1週間近くなるという。こんな所での発病は、多分見込みがないかもしれない。そんなことをうわさしながら、二日目に岸壁まで移動、ここで始めて米兵の顔をみる。あとで博多港でも体験したが、まるで動物を扱うように、頭から足先きまでDDTの消毒、持ちものも全部リュックから出し、これにも散布、真白になった。
あきらめていた日本へ、故郷ヘ
リバティ船は上陸用舟艇である。兵士は船腹近くに乗り、中央部はだだっ広い平土間で戦車や重火器を積む場所らしい。ここにマットを敷いてゴロ寝をして、ようやくの、しかしおかゆが食事に出た。引揚げ援護局に雇用された船員たちが、炊事長となって我々若い者たちがここでも使役に徴用され、ごはん炊きを朝・晩おこなった。船足は遅く、リバティ船の横を日本の旧駆逐艦が飛ぶようにかけていく。勃海湾の奥のコロ島から、黄海を経て玄界灘へ、一週間の船旅だった。
船の中でようやく開放感を味わった。それというのも、重工業に従事していた者たちには、帰国させずに機械設備の保護のため留用になっていた。私もその一人だった。昔の同輩の中国人技術者が、戦後は会社幹部になっていたが、頼みこんで帰国しようとしていたから、脱走同然の帰国だった。どこで追っ手がかかるかわからず、緊張の連続であった。
ガレキの町博多港に七月七日に到着、一日足留めを食って九日に上陸した。またDDTの洗礼をうけ、わずかの中国紙幣と新円を交換して博多駅に向かった。
港についた日から九州は大雨に見舞われていた。筑後川の氾濫で下り列車は不通、やむなく博多駅から北進、門司港から日豊線で、窓をあけて腰かけ、夜行列車で朝四時に大分に着いた。九大線が日田まで動いているというので、動くのを待って日田に着いたのは午後だった。
三時を廻って、七月の真夏でも谷底のような山に囲まれた故郷は、もう陽が西の山にかげっていた。七月十日だった。
敗戦からまるまる一年間、しかも外地である。家では生死不明とあきらめていた。幽霊が帰ってきた。山仕事に出かけていた母を途中まで出迎えた。子供をみて、不思議そうに見ながら近づいてきた。
日本は食料難の時代だった。一九四八年まで田舎で暮らし、四八年七月八幡製鉄の募集に応じて八幡に出てきた。ガレキの山があちこちに残っていた。製鉄南門から帆柱寮へ帰る道路の西側に、いまは小伊藤山公園となった小山があり、防空壕がまだ残っていた。敗戦直前の空襲で、直撃弾をうけ、大ぜいの人が死んでいた。遺体もまだそのままだった。
(北九州市戸畑区在住)