満州で迎えた終戦とその後の生活
新井 充子
「真珠湾攻撃」が朗報としてラジオから流された時、父母が嬉しそうに話していたのを覚えている。その後も賑やかな音楽と共に日本軍の勝利が放送される度に、父は「やった~いいぞ」と喜んでいた。私は何故戦争をしているのか、戦争とは一体何なのかも知らずに、奉天市立葵国民学校へ入学した。校門を入る時は、天皇陛下の写真がまつってある方向へ向かって最敬礼をすること。色々な式の時に、校長先生が真っ白い手袋をしてご真影を捧げ持っている時や「教育勅語」を読んでいる時は絶対に顔を上げてはならず、頭を下げていること。など理由もわからず教えられた通りに従っていた。しかし、真冬の講堂の中での式典は、鼻水が垂れ下がるのには閉口したことを今でも覚えている。
1943年の入学当時はそれでも少しは勉強をしたが、サーベルをガチャガチャと鳴らしながら歩く兵隊さんが、朝礼で講話をすることが多くなった日からは、勉強より軍事教練が多くなっていった。膝を90度まで上げて大きく手を振って歩く行進は、とてもくたびれる。でも先生の拳骨が飛んでくるのが怖くて必死に行進をした。匍匐前進も肘がすりむけて痛いのを我慢してやった。すりむけた傷口に泥が入り、膿みも出たが赤チンをつけて我慢をした。
1944年、校舎が兵隊さんの宿舎になったのを機に学校での勉強はできなくなった。少しの間はお寺や神社の境内を借りて勉強をしたこともあったが、先生が出征をしたり、日本へ帰ったりでそれも短い期間で終わってしまった。1946年10月、日本へ引き上げて父の実家のある栃木県の小学校へ転校するまでは、勉強を全然しないで毎日を過ごしていた。
母の手伝いをしたり、買い物に行ったりした。防水訓練やバケツリレーもした。防空壕も庭に掘った。終戦間近には、ロシアの飛行機が編隊を組んで日本へ向かうのが見えた。相当高い所を飛んでいたが、陽の光を反射してキラキラと輝いていたのがとても印象深かった。その度に「警戒警報」「空襲警報」が発せられ、防空壕に避難しなければならなかった。
終戦間近には、父の勤め先の満鉄職員の家族が、鉄道に乗りこんで生活をしながら、あちこちを逃げ回った。一等車の座席をベッドに変えての生活は印象深いものだった。「天皇陛下のお言葉がある」ということで小さな駅に止まり、ラジオを囲んで聞いたが、雑音が入り、何を話されていたのか全然わからなかった。何人かのお母さんが涙を流していた。誰かが「戦争が終わった。日本が負けたんだ」と教えてくれた。深い意味は分からなかったが、戦争が終わったのだということだけは分かった。その駅で、久方振りにお風呂に入った。大勢がどっと入ったので、たちまち湯の量が減り、残ったお湯はみんなの垢で真っ黒になっていた。風呂から上がったみんなの顔はつやつやとしていて、心なしかうきうきとしているように思えた。
終戦から何日かして、奉天市紅葉町にあるわが家の近くの国道を、奥地から港へ向かう人々が歩いていた。来る日も来る日も、人々の列は続いた。疲れきって顔色はなく、履物は磨り減り裸足に近い足を引きづり、持ち物はほとんどなく、たまに口の欠けた一升瓶をかかえている人がいた。衣服もよれよれで、麻袋を巻きつけている人もいた。子どもの姿は見当たらなかった。国道沿いの塀に腰掛け、往来の人々を飽かずに眺めていた時、小柄な女性がすーっと私の所へやって来た。「お嬢ちゃんいくつ?」ガサガサとした小さな声で聞いてきた。『10歳』・・・じ~と私の顔を見つめていた砂埃の頬を、二筋の涙が流れた。「この手で娘を殺してきたの」真っ黒に汚れた両手を差し出し、ぎゅっと締めながら言った。それくらい時間が経っただろうか、おばさんは、とぼとぼと歩いて行った。あのおばさん、無事に日本へ帰ったのだろうか。今、どんな気持ちでいるのだろうか。『命』「戦争」について考えさせられる出来事だった。
満州の冬は寒い。その寒さの中を歩いてきた人たちは、人家の軒先や寺社の境内で、朝、凍死体で発見された。数え切れない亡骸は、寺の境内に深く掘った穴で葬られた。街中に死臭が漂い、その匂いから逃れることはできない。戦争の映画を見ると、死臭が漂い、吐き気がする。身体が戦争を拒み続けていた。
年金者組合京築支部支部長 新井 充子