お前、日本人か!~戦後五十年の原点~
五島田耕一
昭和二十年十二月二十六日夜、台湾台北市。その日私は、友人と映画を観ての帰り、雑踏にまぎれて一人で、台北市内の繁華街西門市場通りを歩いていた。
その頃、対日感情は悪く。日本人、特に帰国待ちの兵隊や警察など、それに一般の人までまきこんで、台湾人などによる暴力事件が相ついでいた。
私の歩く前の方から、棒ぎれなどを持った中学生風の一団六~七人に会う。私への視線に一寸不安の念がよぎる、すれ違いざま私を囲む輪ができた。「お前、日本人か」その時、私の服装は、紺の登山帽、兵隊の上衣、紺のズボンであった。たじろぎと、日本人のプライドの交錯の中、日本人だという答えがでた。
その瞬間、抵抗する間はない、殴る蹴るの暴行、そして最後に頭にチカット刺痛、切り出しであった。足早やに逃げるかれら―頭の血は顔全体を覆う。倒れた私は這うようにして通りがかりの二、三の人に支えられて、夜店の日本人のおでん屋に―。おばちゃんはきつい表情で〝ああまたやられたね、なんね一人で兵隊服など着て、この通り危ないのよ!この前も兵隊さんが殺された〟と言いながら假包帯をしてくれ、早く帰りなさいと人力車を呼んでくれた。人力車に乗る間際に、別の一団が通りかかったが、私の包帯姿をみてその中の一人が、こいつはもうやっているからと言い立ち去った。酔った兵士が人力車に乗り、そら行け、そら行けと中には牛蒡剣を抜いて、タダ乗りの光景を見たことがある。
このようなことでの日本人に対する反感は特に兵隊、警官などへ強かった。一部の人の素行であったにしろ……。
年が明け、日本人引揚げが噂に、日本人一斎引揚げは、機能が麻痺するとのことで―日本人技術者徴用の通達があり、具体的には
一、徴用年限一応三年とする。二、賃金は現行の三倍を支払うというものだった。私は当時台湾総督府の工業研究所醗酵工業部で酒類や航空燃料の分析に携わっていた。
戦後ショックの両親、特に父は喘息の持病があり早く帰国引揚げを望んでいたので、日本人から台湾人に代わった所長に、私への暴行の件と両親のことなど話すと「是非、一 年でも二年でも残って貰いたいが、あなたの実情致し方ない」と特別の許可をもらい、帰国の準備にかかった。
私と年齢も同じで研究室で一緒に働いていた蘇乞食という台湾の友人がいた、一寸変わった名に私は議論などで感情的になった時などキッチャ、キッチャと言ったりした、あの、ジャップといった調子で―。
しかし戦後訪台の折再会、苦労して化学原料の事業を営み社長になっていた。名も蘇明照と改めていた。一緒にカンペイ、杯がすすみ興がのると、必ず蘇君は〝ゴトダさん〟同期の桜唄いましょうと言う。私が在職の時に「山本元師の後に続かせて下さい」と予科練を血書志願したことがあった。
あの時代、同じ年代、同じ研究室での共感がそうさせたのであろうと思う。また酒席で台湾の友人が、私に対しての批判めいた意見をのべると、ボーハツトラー(かまわない)昔のこと関係ないといって、私をかばってくれた。
友好の訪台、訪日で親交を深めていたが、八年前、台北で不慮の交通事故で亡くなった。
訃報が入り、葬儀委員の一人にと招請の書簡が届いた折、前年度訪台していたので思案したが、行かないで悔いるより参加しようと妻と合意訪台した。六月の暑い日だったが、楽隊入りの菊花を一杯に飾った霊柩車など壮大な葬儀だった。墓前で君との誓い忘れないよと手を合わせた。
友は亡くなったが、奥さんや家族との交際はいまだに続いている。
(北九州市若松区今光在住)