70年前の夏を想い
森田 禮三
(70年前の首都東京で)
戦争末期、昭和19年から20年にかけて国内も外地と同様戦場と化し、首都東京も連日の空襲で多く市民が殺され家を焼かれる日が続いた。
都心から遠く離れた郊外で閑静な住宅地の一角を占める私の家の敷地にも数発の焼夷弾が落ちたが奇跡的に家屋はその直撃を免れた。
(船長を夢見て)
昭和20年4月、当時17才中学4年生で軍国少年の私は、「戦争に勝ってから将来は外国航路の大型船の船長になって7つの海を」の夢を持ち[東京高等商船学校]に入学した。
それも束の間、たった4か月後の8月15日敗戦によって夢ははかなく消え去った。
しかしこの4か月間はその後の40年に匹敵するくらい私の生き方を決定づけるものとなった。
(猛特訓に明け暮れ)
入学したその日から月・月・火・水・木・金・金の猛特訓に明け暮れる生活が続いた。
漕艇訓練で艇庫から短艇を降ろす際、前日の満潮で漂着した焼死体を櫂で押し流してから艇を漕ぎ出すことも、隅田川河口から東京湾にむけての漕艇中も水面を漂う水ぶくれの焼死体を櫂で取り除きながらの訓練では「死者」への悼みや恐れる本来の人間性が麻痺された状態におかれた日々の暮らしだった。
(焼死体が鰈の異常発生を)
隅田川の河中数百メートルごとに係留されている材木をねぐらにしていた鰈の群れがこの年大量発生した。
短艇から聞こえてくる生徒の掛け声や水をかき回す櫂の音に驚いて一斉に蜘蛛の子を散らすように数千数万匹逃げる異様な状況が鮮明に記憶として残されているが、鰈の大量異常発生は度々の空襲で焼かれ川にながされた焼死体を餌にした結果と、後日聞かされた。
(いよいよ特攻訓練に)
8月のある日教官から「神潮特攻隊」の鉢巻をわたされ、「米艦隊の本土上陸近い。ベニヤ板でつくった小艇に爆雷を積んで米艦に体当たりする訓練を始めるので覚悟をしておくように」と訓示が出されたが結局実現せず敗戦の日を迎えた。
(玉音放送で敗戦を)
8月15日の昼、校内広場に全員招集、天皇の終戦の詔勅をラジオで聴く。
「同志と結集して徹底抗戦のため愛宕山に籠城しよう」とアジ演説する勇ましい上級生もいたが、大方の生徒も教官も敗戦で死なずに済むとの安心感と敗戦の虚脱感状態で反応なし。学校は解散した。
(焦土の隅に鮮烈な緑の杜が)
私物のほかに支給された毛布2枚を背負い皆と別れを告げ帰宅した。
真夏の太陽に照らされ焼けただれた瓦礫の死の街をトボトボと歩き、かろうじて運転を再開していた「地下鉄」に乗り終点渋谷駅に向かった。
渋谷駅に着く直前、暗い地下から地上に出た電車の車窓から飛び込んできた光景は今でも忘れることがない。
一面焼け尽くされた街の一角に生き残った広葉樹林のたくましく限りなく美しい生命力あふれた「みどりの杜」のひろがりが目に入りその鮮烈な対比に茫然と我を忘れた。
その一瞬後、自然に涙が溢れ、「ああ、戦争は終わった、俺は生きている。これからが俺の人生だ」と固く決意し家路を急いだ。
その記憶が翌年改めて進学受験の際、緑に縁の深い東京農大の緑地土木科を選択した布石になった。
(最後に)
北九州市職労・全日本年金者組合運動と、激動の時代を闘ってきたわが人生に悔いはない。
残された人生、隠居する気はさらさらない。
安保闘争をほうふつさせる情勢に胸がときめく。このたたかいに終生参加できるのは望外の幸せだ。