戦後70年の私
清水義則
「お前たちは戦争を知らない」、少年兵への願書を見せたときの父のコトバでした。国民学校6年生でした。「しこのみたて」になってお国のために戦争.に行くつもりでした。「非国民が」と私は腹の中で父をののしりました。父は支那事変と大東亜戦争に輜重兵(シチョウヘイ)として従軍し、帰還した時は下士官でした。父の軍服姿の写真を1枚だけ見た覚えがあります。馬に乗り腰に日本刀とピストルを下げた戦闘帽姿でした。その父が夜になると日本刀を抜いて、刀身を見つめているのが恐ろしかった、と母親から聞いたことがあります。私が戦争を知らないといった言葉には、父として、「複雑なものがあった」と推測できたのはずいぶん後のことでした。
私は小学生のころから模範的な少国民でした。国民学校では高学年になると朝礼台に上がって、校長先生の隣で教育勅語を暗唱します。その生徒の1人に選ばれました。全校生徒数百人を前にして「朕思うにわが皇祖皇宗・・」と始めると先生も生徒も一斉に頭を下げるのは気持ちの良いものでした。しかしそんな私でしたが、中学校に上がるときには入学試験で失敗しました。2次試験の面接のときに試験官の前で勅語の暗唱ができなかったのです。試験官の顔が閻魔様に見えて、どうしても声が出ず頭の中は空っぽになったのです。
既にそのころから、私たちは学校の授業よりも近所の鉄工所で、大砲の弾を磨く仕事に動員されていました。中学1年の姉は大手の化学工場への動員でしたが、父に頼まれてエチルアルコールをこっそりと持ち出して父を喜ばせていました。昭和20年の4月でした。すでに戦争は終局に向かっていましたが、そんなことは全く知らずに私は1年遅れで中学に入りました。
中学校生活の1年間は授業よりも勤労動員でした。航空燃料用としてさつま芋を作り、その手入れをするのが日課のようでした。いもの実ができるとこっそりと盗みとりして2,3人でかじっていました。大部分の先生が召集を受けて軍隊に行ったまま帰ってきていませんでした。自習が多く、1人の先生が複数の教科を担当していたので、授業はほとんど進みませんでした。英語の先生がいなくて、物理の.先生からアルファベットだけを1年間かかって習ったこともありました。
コメの配給は殆どなくて、海水に浸かった高粱などが配給されていました。母は、嫁入り前の自分の着物をもって、私と一緒に穴生や上津役の農家を回って食料を手に入れていました。私は時々、遠賀の方の友人に誘われて遊びに行き、そこの畑で生のトマトやキュウリをかじるのが何よりの楽しみでした。
戦争が終わった時には、頭上の暗い重しが取れたようでした。それで初めて空の青さと広さに気が付きました。戦争中は空襲警報が鳴ると、爆音と一緒に空いっぱいに、アメリカの爆撃機・B24が翼を広げて獲物を探す大鷲のような姿で現われました。そのころは八幡の街は製鉄所だけでなく、社宅街も空襲や機銃掃射を受けて焼け跡になり、道路には焼け焦げた電車や搬送に使われていた馬の死体などが転がっていました。製鉄所の東門の前にあった小伊藤山では、いくつもの防空壕に逃げ込んだ数百人の地元民が焼夷弾で焼け死にました。今その跡地には慰霊碑が建てられ、千羽鶴が絶えることなく飾られています。
私の終戦は中学校のタコ壺でした。私の家は学校に近かったので空襲警報が鳴ると学校に駆けつける学校防衛隊員でした。校内に1人用のたこ壺型の防空壕を掘って空襲警報が鳴ったらそこに逃げ込むのでした。校舎は空から見ると何かの宿舎に見えるのか時々空襲を受けていました。雹(ひょう)のような騒がしい音を出して8角形の焼夷弾がばらばら落ちてくるのです。校舎の屋根を突き抜けて床板に刺さったり、床板を抜けて地面の泥の中に転がったりしていました。焼夷弾には発火しやすい火薬が入っていて、溶接のガスのような激しい火花を出して周囲を青白い炎で焼きつくします。私たち防衛隊は校舎に落ちた焼夷弾.の火を、竹竿の先に藁束のついた棒を水で濡らして、火を消してまわり校舎を守るのが私たちの任務でした。
昭和20年8月15日の終戦の日は、朝から学校防衛隊の1人として、登校していました。八幡がその数日前に大きな空襲を受けたせいか、先生も防衛隊も参加者は少なくゆっくりしていました。昼から天皇のラジオ放送があるというので5、6人が用務員室に集まり、先生も2、3人来ていました。ラジオの感度が悪く、ガーガーと雑音が聞こえるばかりで、天皇の話は全く聞こえませんでした。誰かが、ガンバって敵をやっつけろということだと言うと、先生が低い声で、戦争は負けたんだと帰り始めました。
自宅に帰ると、母が防空幕を外せと言うので電球の周りを囲っていた黒い布を外し、ついでに窓ガラスにかけていた黒色のカーテンものけました。部屋の中が急に明るくなり、焼夷弾を恐れて外していた天井板の間からゴミだらけの屋根裏がまる見えでした。
戦争は終わって空は明るくなったのですが、生活も学校もそうはなりませんでした。食事の代わりに芋を食べられれば良い方で、海水につかってふやけた高粱がコメの代わりに配給され、腹が減っているので食べましたが、下痢をするものが続きました。学校は教科書の墨塗りが始まり、国史や国語だけでなく軍国主義と関係があるとみられる中身はみなまっ黒に消しました。学校は授業にならず自習が多かったのですが、いも畠だった運動場は、少しばかり整理され体育や野球などもできるようになっていました。先輩の中に野球部の経験者がいて、グラブとボールだけで運動場の中でキャッチボールをはじめていました。私たちも布で作ったグローブや子供のバットなどを持ってそのなかにいれてもらいました。小学生のころの三角ベースボールで遊んだ経験と全く違う本式の野球でした。試合になるとボール紙で作ったユニフォームや帆布で作った布のスパイクなどでしたが、新しいスポーツに夢中になりました。授業も新しい学科として英語が始まり、年配でしたが熱心な教師のおかげで関心を強く持ちました。
しかし私の関心はどういうわけか規則正しい英文法の法則に強く惹かれ、教師からはあまり良い印象は持たれませんでした。それまでの上から一方的におしつけるような、有無を言わせぬ教え方には生理的に拒絶反応が起きました。
このころから私は文学的な科目や規則的な学科に興味を持つようになりました。そうして、学校の主要な学科だった設計や製図など技術的な面への関心は急速に落ち込み、成績はどんどん悪くなりました、しかし、もともと自信のあった国文関係が英語も含めて成績が上がり、大学入試への希望が湧いてきました。当時、「わが青春に悔いなし」の映画や、映画の中で歌われた旧制高校の寮歌などにも刺激されて,京大や早大などへの進学が目標になりました。
私は満州事変が始まった年に生まれ、生まれた時から軍国主義的な環境で教育を受けた、典型的な昭和の世代でした。死ぬことの怖さや、戦争への恐怖は「お国のために」「天皇陛下のために」「靖国の神に」の刷り込みで、思考の外に追い出され、それ以外は考えられなくなっていました。そこに墨塗りが始まり、戦前の教育はすべて否定されました。それでも終戦直後の特攻隊が次々に出撃していった精神がよくわかりました。
この一面的な知識の流し込みとそれへの反感がその後の私の人生には色濃くつきまとっています。
大学は私大で心理学科を選びました。権威や権力には無縁で、人間の心の奥底で生涯変わらないものがあるのではと探しました。しかし私が最初に学んだのは授業ではなく、学生生活からでした。学部の地下には生協の売店があって一寸した学用品や食料品がありました。そこで最初に目にしたのは朝日や読売と並んだ赤旗新聞でした。私は思わず周囲を見回しました。その新聞のために多くの人が虐殺され、多くの人が命をかけたことは「蟹工船」などで読んでいました。それが有名大学の地下に一流紙と並んで一画を占めていることに 安心感の方が先にきました。
しかし、東京でのカルチャーショックはそれが始まりでした。私はその不安感を払しょくするためにやみくもに図書館に通って本をよみました。国会図書館で心理学関係の図書をあらかた読み漁って、当時、心理学科で古典的な授業をしていた教授を相手に論戦を挑んだりしました。新宿の屋台で爆弾と言われていたネコイラズ入りの焼酎を飲んで椅子ごとひっくり返ったこともありました。
その四年間の学生生活は雲のような掴みどころがない、しかしそのどこかになにかがあるような気持ちだけでした。心配した父親から自宅に呼び戻されました。地元に何のつながりも持たなかった私は、八幡のあちこちに頭を突っ込んでまわりました。八幡は労働者の街だけに、その頃の人達のなかには立派な人たちがいました。
しかし私は業者の中にみつけました。私が今でも尊敬しているのは、亡くなられましたが福岡の印刷屋さんでした。奥さんが末期のガンにおかされ治療法が見当たらないのを、別府の温泉療法で治すために別府に引っ越して看病しながら、福岡に通勤していました。しかも福岡の業者代表として、ときには上京して政府への陳情や請願にも参加していました。介護と営業と運動の厳しい取り組みの中で、他県の代表からは彼の運動の目標は私の背中に迫ってきている、と恐れられるほどの高い評価をうけていました。 私の戦後70年が始まります。
70年が始まります。